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キャッチボール

 彼女の投げたボールは線を引くようなきれいな軌道を描いてぼくが胸元に構えたグローブに収まった。シューッ、と風を切って向かってくるそれは、運動が苦手なぼくからしてみれば少し怖いくらいだった。一応野球部に所属していたとはいえ、弱小野球部で、補欠ギリギリだったぼくだ。それに、そんな現役時代からのブランクもある。しかしながら、ぼくがどうにか彼女の投げるボールを取れるのは、彼女のその投球の精度のおかげに他ならない。それは過たずにぼくの胸元に構えたグローブに収まった。指先にかかった、きれいな回転のボールだった。それに引きかえ、ぼくの投げるボールはと言えばあっちへ行き、こっちへ行き、彼女のグローブの届かないところへ投げてしまい、それを取りに彼女を走らせてしまうこともしばしばだった。たまたま彼女の胸元に投げられた時には、彼女は必ずとてもいい音をさせてそれを取ってくれた。まるでぼくがとてもいいボールを投げたと勘違いさせるくらいにいい音だ。
「ナイスボール!」と、彼女は言う。良いのは取り方であって、投げられたボールではない。
 ぼくらはキャッチボールをしていた。彼女は大学のゼミが一緒だったのだけれど、それまで特に会話らしい会話をしたことがなかった。それがなんの拍子か会話をし、ぼくが野球部だったことを知ると彼女はそれに食いついてきた。
「わたしも野球やってたんだ」と、彼女は言った。「小さいころ」
 彼女の父親は大の野球好きだったという。「子どもが生まれたらキャッチボールを」が彼のささやかな夢だったのだという。
「ところが生まれてきたのは女の子ばかり」と、彼女は眉を持ち上げて言う。「それも四人」そして、肩をすくめた。
 もちろん、女性が野球をやってはいけないという法は無い。長女だった彼女は、父親の期待を敏感に感じ取り、野球に興味があるように振る舞ったのだという。
「父の喜びようったら」と、彼女は笑った。「すぐにグローブを買ってきたの」
 そうして、彼女とその父親とのキャッチボールは休日の日課になった。
 ぼくらは河川敷に向かっていた。彼女は良く使い込まれた内野手用のグローブを持ってきていた。それのポケットをこぶしで叩く。ポンポン、といい音がする。
「本当は、絵を描くのが好きだったんだけどね」
 しかしながら、自分から言い出した手前、やめたいとは言い出せず、それに父親が喜んでいるのも悪くはなかった。続けているうちに上達し、指にしっかりかかった、回転のいいボールが投げられた時には快感を覚えた。
「シューっていって、それをバチッって取ってもらえるのって、なんだかいいでしょ?」
「そうだね」と、ぼくは汗だくになって返す。ぼくの捕球音は冴えなくて、なんだか彼女に申し訳なくなってくるほどだ。
「それで、上達してきたんで、少年野球のチームに入ったの」
 とはいえ、女子の選手は彼女だけだった。本来絵を描くのが好きな大人しい少女であった彼女はチームメイトの男子たちとは馴染めなかったという。
「でも」と、彼女はボールを投げる。「チームで一番上手かったのはわたしだな」
 彼女は中学でも野球部に入って、そこでもクリーンナップを任された。たまにマウンドに上がり、得意のカーブで三振の山を築いたそうだ。
「ところが」と、彼女は言った。「高校に入ると、だんだん敵わなくなってきた」
「誰に?」
「男子に」と、彼女は肩をすくめた。「男子全般。もちろん、わたしよりもヘタクソなやつはごまんといたけど」
 少しぼくの胸が痛んだ。ぼくは確実に彼女よりもヘタクソだろう。
「でも、球速も、飛距離も、段々敵わなくなってきたの。力で太刀打ちできなくなってきて、それでやめちゃった」
「もったいない」と、ぼくは言った。彼女は肩をすくめた。ぼくの発言は無責任っだった。
「いいんだよ、別に」
「どうして?」
「野球を一度やめて思ったんだけど、別に全国制覇とか、プロになるとか、そういうのって結構どうでもいいんだよね。勝つとか負けるとか、そういうのもどうでもいい。ビュンってボール投げて、バシッて取って、それだけで楽しくない?それでいいのかもなって」
 彼女の投げたボールはきれいな軌道を描き、ぼくの胸元のグローブに収まった。


No.551


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