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生まれて来なかった人

 人はわたしを臆病者と呼んだりするが、わたしに言わせれば、みんな無謀であり、不注意であり、蛮勇というか、蟷蝋の斧とでもいうか、あまりに不用意なのだ。わたしはむしろ適度に慎重であり、自分のことがわかっているのであり、無理をしないし、無茶を避けているだけなのだ。
 臆病と呼びたければ呼べばいい。最後に笑うのが誰なのか、最後になればわかるだろう。
 当たり前か。最後になれば最後に笑うのが誰かわかるだろう。笑っているのが最後に笑う者だ。そして、それはわたしである、はずだ。
 わたしは常に最悪の場合のことを考えながら行動している。それに備えながら生きている。いつなんどき、最悪の事態が起こるかわからないのがこの世界だ。それを想定し、備えながら生きることこそ、最悪の事態に対処する方法であり、それ以外にはあり得ない。あるとすれば運任せだ。楽観的なのではない。無謀なのだ。飛行機は墜ちないかもしれないが、緊急事態への対処の仕方はアナウンスされる。緊急事態には酸素マスクが供給されること、墜落するような場合にとるべき体勢、海の上に不時着した際の飛行機からの降り方などなど。これも最悪の場合に備えるためだ。わたしは最悪の事態を想定し、飛行機に乗るなどということはないのだが。飛べば必然的に墜ちる可能性が生まれる。墜ちればほとんど助かるまい。そうなれば、最悪の場合のことを考える、その可能性を排除すべきだ。それが賢い生き方だ。
 繰り返すが、わたしは臆病者ではない。別に、飛行機に乗るのが怖いわけではない。可能性はできる限り低くする方がいい。
 たとえば、街を歩くとしよう。そうなれば車にはねられるかもしれない。街を歩くのは得策ではない。どの道でもそれは起こり得る。ろくでなしの酔っ払い運転がいるかもしれないし、車のトラブルで暴走するものにはねられるかもしれない。もちろん、わたしは細心の注意を払いながら歩くであろう。それでもなお、わたしが車にはねられるという可能性は取り除かれていない。なぜなら、最悪の事態とは最悪であるからだ。どんなに注意をしていてもはねられることはある。これは最悪だ。そうならないにはどうすればいいか。街を歩かないことだ。そうすればはねられることもない。
 たとえば、ある女を愛するとしょう。その愛が一方的かもしれない。それは大いにありうることだ。場合によっては、一方的に愛されることもあるかもしれないが、そんなことはまずないだろう。愛が一方的なことに、わたしは耐えられるだろうか。わからない。しかし、最悪の場合を考えると、わたしはそのことに耐えられないだろう。どんなに熱くその胸の内を訴えても実らない愛。そして、耐えかねたわたしは自ら命を絶つに違いない。よもや愛し合えたとしよう。しかし、その最愛の人が死んでしまったらどうなるだろう。わたしはその悲しみに耐えられるだろうか。自分の半身とも思っていた存在の喪失。もしかしたら、耐えられるかもしれない。しかし、最悪の場合を考えずにはいられないのだ。耐えられなかったわたしは自ら命を絶つだろう。
 わたしは、街を歩くこともしないし、人を愛することもない。理由はわかっていただけただろう。可能性を排除するのだ。
 そんな人生に意味があるのかって?
 究極のところ、わたしが何を回避しようとしているのか。それは死だ。わたしは死を避けようとしている。どうにか生きていたい。車にはねられたくないし、乗っている飛行機が墜落するのも嫌だ。そうなれば死んでしまうからだ。わたしは死にたくない。
 だから、わたしは生きないことにしたのだ。生きなければ死ぬこともない。生まれて来なければ、死ぬ心配もない。これほど安心なことはないだろう。生まれなければ、死ぬ可能性はゼロだ。
 それに、わたしの言うような、何もかもに心配しながら、怯えるように生きる生き方では何の意味もない人生にしかならないのだから。

No.339

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