見出し画像

彼女にとって最後の雪

 その冬の、最初の雪は、彼女にとって最後の雪になった。
 その雪のやんだ明け方、彼女は息を引き取った。それは穏やかな死だった。
 こういう言い方もなんだけれど、彼女は死ぬのに充分な年齢だった。間違いなく大往生の部類に入るだろう。なにかが彼女を殺したわけではない。彼女の持ち時間が尽きたに過ぎない。
 彼女はぼくの妻だった。ぼくは確実に死に近づいていく妻の手を、そのベッドサイドで握っていた。窓の外では雪が降りしきっている。指先に感じる枯れ枝のような指、皺だらけの手。かつては、それこそ陶器のようになめらかで、美しい手だったことだろう。それは見る影もない。
 とはいえ、ぼくはその美しかった妻の手を見たことがない。妻がまだ若かった頃、ぼくはこの世に生を享けてすらいなかったからだ。
 ぼくと妻は祖母と孫ほど歳が離れている。
 妻がまだ若かった頃の写真を見たことがある。それは身震いするくらいの美女だ。通った鼻筋、鋭い目つき、豊かな唇、スラリと伸びた手足、どんな名士でも彼女に服従することだろう。
 どれもこれもぼくが妻に出会ったときにはすでに失われていたものだ。出会ったときの妻は老婆と呼んで差し支えのない姿だった。もちろん、そうした年月が奪い去るものを少しでも繋ぎ止め、着飾ることで糊塗しようとはしていたが、それでも限界はある。彼女は完全に老いていた。
 ぼくが妻と結婚をしようと決めたのは、そういう外見的な魅力からではない。では、内面的ななにかに惹かれたのかと問われれば、答えはノーだ。妻を端的に言い表すなら、高飛車で鼻持ちならないクソババアだ。気分次第で当たり散らし、後悔して泣いて許しを請う。自分の過ちは絶対に認めず、なんでも他人のせい。誰も彼女と付き合いたいとは思わないだろう。
 しかしながら、ぼくはそんな相手と結婚したのだ。
 正確に期するなら、彼女からの結婚の申し入れをぼくが受け入れた。
 なぜか?
 簡単なことだ。彼女は莫大な財産を持っていた。ぼくと彼女の結婚が新聞やニュースで取り上げられるくらいの、大富豪が彼女だった。莫大な財産。それはとても魅力的だった。彼女は死ぬのに充分年老いていた。それはそう遠くない未来に訪れるであろうことはわかりきっていた。そうなれば、その財産はぼくのものになる。ほんの少しの辛抱をすればいいだけだ。
 新聞やニュースはこぞってカネ目当ての結婚だと言い立てた。ぼくはそれを否定した。
「彼女を愛しています」ぼくは世間に向けてそう宣言した。彼女は満足そうにぼくの横でうなずいていた。
 彼女がどうやってその莫大な財産を築いたかと言えば、それは彼女が築いたのではなく、彼女の夫のひとりから受け継がれたものだった。
 身震いするくらいの美女だった頃の彼女は、祖父と同じくらいの年齢のその男と結婚したのだ。その男がどうやって財産を築いたのかは知らない。大方、なにか悪いことでもしたのだろう。
「彼を愛しています」身震いするくらいの美女であった彼女は世間に向けてそう宣言した。その横では、老人が満足そうにうなずいたことだろう。
 そして、ほどなく老人は死に、彼女が大富豪になった。それから何人もの愛人、恋人、婚約者、夫という長いリストが作られ、幾度かの離婚があり、そのリストの最後に名前を連ねたのがぼくだった。
 みんなカネ目当てだったのだろう。
「あなたは」と、死に瀕している彼女はぼくの手を握りながら言った。「どうせわたしが死んだら若い女と再婚するのでしょう」
 ぼくは首を横に振った。「そんなことしないよ」
 彼女はにやりと笑った。「ウソをつかなくてもいいの」
 事実、それはウソだった。ぼくには愛人がいて、妻が死んで適当な時間がたったら再婚することになっていた。
「あなたはバカね」と、彼女は言った。
「どうして?」ぼくは尋ねた。
「これは呪いよ」
「呪い?」
「もしもこれを受け取ってしまったら」と、妻は言った。「誰もあなたを愛さなくなる」
 ぼくは黙り込んだ。彼女が言っているのは、その莫大な財産のことに違いがなかった。
 妻は窓の外に目をやった。闇夜に、白いかけらが舞っている。
「サイテーの人生だった」妻は言った。その横顔が、とても美しかった。
 そして、その明け方、妻は息を引き取った。



No.774
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?