マガジンのカバー画像

兼藤伊太郎

1,010
「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
運営しているクリエイター

2022年3月の記事一覧

眠り無しの人生

眠り無しの人生

 眠りがぼくを訪れなくなってから一ヶ月が経とうとしていた。その頃には、夜が更けていくのに焦燥を感じなくなっていた。三日目までは、短針が下って行くのを見ながら焦っていた。眠れないことに焦り、すると眠りはさらに遠のき、それが焦りを助長した。悪循環である。そして、ぼくは一睡もせずに翌朝を迎えたのだった。
 そんな日が三日続いた。
 どうにか眠ろうとしていたのは、眠らないままだと翌日がつらいだろうと思った

もっとみる
父の消失

父の消失

 父が消えた。
 と言っても、父は失踪したわけではない。完全に消失したのだ。この世界から消え去った。存在そのものが無くなった。
 それは父の選択だった、のだと思う。消失するには、本人の意思が必要不可欠だからだ。赤の他人がどんなにそれを強要しても、本人にかすかにでもそれを拒む気持ちがあれば消失なんてことは起こらない。
 父はそれを望んでそうしたのだ。つまり、自らの消失を望み、望んで消失した。
 跡形

もっとみる
謎と女

謎と女

 青年は平凡な男だった。平凡の代名詞と言っても過言ではないかもしれない。青年が平凡の代名詞と言ってもいいくらいである。
 平凡と呼ばれることを厭う者も多いだろうけれど、青年は自分の平凡さ加減を愛していた。逆説的にそれが青年を非凡なものにしているのではないか、と見る向きもあったが、まあそんな話はどうでもいい。
 そんな平凡な青年が、ある日母親に呼び出された。
「大切な話があります」母親は青年に言った

もっとみる
家族が来る

家族が来る

 ある休日の朝のこと。
 ドアが激しくノックされた。あまりにも激しいノックで、恐怖を禁じえない。恐る恐る開けてみると、見知らぬおばさんと青年が立っていた。ぼくの顔を見るとおばさんの目にはみるみる涙がたまった。
「会いたかった!」と、おばさんがぼくに飛びかかって、いや、抱きつこうとしたのかもしれないが、見知らぬおばさんにそんなことされたらたぶん誰だってそうすると思うんだけど、ぼくは飛びかかって来られ

もっとみる
御託宣

御託宣

 彼女の部屋にて、他愛も無い会話を交わしていると急に彼女は宙の一点を見つめ「御託宣だ」と呟き隣室に篭ってしまった。以前からたびたびあったことなので別に驚きはしない。またか、と思っただけだ。こうなるとなかなか出てこない。手持ち無沙汰で困る。
「絶対に覗かないでね」と釘を刺されていたが、退屈が好奇心を後押しするのに抗うのは難しい。隙間から中を窺ってみた。
 暗い部屋の中、何も無い空間に向かって繰り

もっとみる
8

 ある日、男は思った。「なんて淫らなんだ!」
 ある日目にした8についてである。数字の8だ。男の目には8がひどく淫らなものに見えるようになった。蠱惑的で、性的で、自分の中の性衝動をむやみやたらと掻き立てる。見ていると落ち着かない気持ちになるので目をそむけるが、そうしているとムラムラと欲求に襲われ、見まい見まいとしても我慢が出来なくなって見てしまう。そしてまた、それの魅力のとりこになるのだ。
 なぜ

もっとみる
心にもないこと

心にもないこと

 心にもないことが口をついて出た。それを聞いていた相手は驚いた顔をした。
「いや、いいと思うよ」相手はそう言った。そして肩をすくめる。「いや、君がそんなことを言うなんてちょっと意外だっただけだよ」
 それは心にもないことであって、その言葉は勝手に出ただけだと説明したが、殊勝な発言をしてしまったことに照れているのだとさらに勘違いされただけで終わった。
「いや、いいじゃないか」
 実際、赤面していたの

もっとみる
腹の虫

腹の虫

 わたしは寄生虫である。名前はまだ無い。
 おそらく、今後も名前が付けられることはないだろう。わたしの住み処は人間の腹の中である。そこにいるのはわたしだけだから、呼び分ける必要がないので名前は無い。それに、名前を付けるようなものも存在しない。
 そこでは、放っておいても食べ物は降ってくる。ぼんやりしていても、食い扶持に困ることはない。そうした環境にあっては、努力というものはなされまい。そこに知性の

もっとみる
父と母

父と母

 旅行から帰って来て早々、父と母は離婚することにした、と宣言した。
 それはふたりの結婚何十周年かを記念する旅行のはずだった。そんな記念の旅行のあとに離婚をすることに決めるなんて。
 とはいえ、二人の表情は清々しいものだった。「旅行先で喧嘩でもしたの?」と、尋ねようかとも思ったが、その言葉は口に出かけて止まってしまった。それは、父と母の様子が喧嘩をした人間のそれにはとてもではないが見えなかったから

もっとみる
はじめての

はじめての

 はじめて生まれたその人は、はじめて泣いてはじめて息をした。はじめての空気はヒリヒリと肌を刺した。
 はじめて名前を呼ばれ、はじめて笑った。はじめての笑いはその人を驚かせた。はじめて笑ったその人は、自分が笑えるということを知らなかったし、そもそも笑うということを知らなかったからだ。だからとても驚いた。自分の笑い声に、腹の底から込み上げてくる感情に。
 はじめて歩き、はじめて転んだ。その後も歩いた

もっとみる
雨のしずく

雨のしずく

 ぼくは死ぬだろう。
 人は、必ず死ぬものである。善人でも、悪人でも、偉大な人間で、これ以上無いような愚か者でも、死は平等に訪れる。そして、ぼくも人であり、であるからには必ず死ぬ。そういうものだ。他のすべての人類と同じように。
 しかしながら、ぼくのそれはそう遠くない未来に訪れる。これはぼくの体調が優れないから起きる悲観ではない。ぼくの状態がもっとよくて、それこそ気分爽快でも、きっとそういう判断を

もっとみる
ぼくからぼくが出て行ってしまった

ぼくからぼくが出て行ってしまった

 ある日、ぼくはぼくがぼくから出て行ってしまったことに気づいた。それは唐突な気づきだった。天から降って来たような気づきだ。落下してきたものが、ぼくに直撃いたような気づきだった。
 ぼくからぼくがいなくなると一体どうなるのか、疑問や好奇心を持たれる向きもあるかもしれないが、こればかりは一回体験してみないと、百万言を費やしたところで理解はできないだろうと思う。
 ひとつ言えるのは、これは父が蒸発すると

もっとみる
忘却

忘却

 あるところに泥棒がいました。
 泥棒は普通は価値のあるものを盗みます。たとえば、お金とか、金塊とか、宝石とか、美術作品とか。
 ところが、この泥棒はちょっと変わっていて、そういったものは盗みません。この泥棒が盗むのは、「本当は大切なのだけれどそれを忘れられている物」です。お金とか宝石みたいな、誰が見てもその価値が明らかなものには目もくれません。
 この泥棒が変わっているのは、その盗むものだけで

もっとみる
愛について語るときに我々の語らなかったこと

愛について語るときに我々の語らなかったこと

 ぼくらが愛について語り合っている間に、戦争が起きていた。それはぼくらには関係のない戦争だったけれど、ぼくらはその事態に愛の無力さを突きつけられた気がした。
「愛なんて無力だ」
「無力だね」
 そもそも、ぼくらの愛についての議論だって、堂々巡りの平行線、どこまで行っても交わることなく、交わったかと思ってもすれ違いで、なんらかの合意を見るなんて夢のまた夢、妥協点を探ることさえできない有様だったのだ。

もっとみる