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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2020年9月の記事一覧

代打

代打

証言一
 彼の占めていた役職は極めて重要度の高いものでした。ええ、大きな責任のあるものですし、高い専門性が必要とされる仕事ですので。余人をもって代えがたい、とはまさに彼のことでした。彼以上にその役職をうまくやりおおせる人間は想像もできませんでしたよ。高い分析能力、抜群の行動力、やり抜くと決めた時の腹の座り方といったら、上司であるわたしですら彼を尊敬していました。そんな彼が、ある日、神妙な顔付きでや

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走れ正直者

走れ正直者

 人を騙すなんて楽勝さ。要は嘘を嘘だと思わせなければいいんだ。どうやってだって?自分自身でその嘘を嘘だと思わなきゃいい。簡単なことだろう?しかし、たいていの奴はそれができないわけだ。つい嘘を嘘としてついてしまう。それはバレるに決まってる。まあ、もう無意識で嘘をつくくらいになればいいんだ。そうすると、自分の嘘を自分でも信じられるようになる。そんなことが可能なのかって?確かにおれは嘘つきの詐欺師さ、そ

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ぼくらはどこにも行けない

ぼくらはどこにも行けない

 昔、猫も杓子もタクシーに乗るものだから、タクシーがなかなか捕まらないという時代があった。もちろん、電車やバスという公共交通機関が存在しなかったわけではない。それはちゃんと存在したし、いまと変わらずに動いていた。電車やバスの交通網の整っているのになぜタクシーかと言うと、そういった公共の移動手段が終わってしまうまで飲んでいるだけ、世の中の多くの人の羽振りが良かったからで、そこでタクシーで帰ろうと考え

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わたしたちは愛を知らない

わたしたちは愛を知らない

 彼女のことを人に話すとき、わたしが彼女のことを「姉」と言うのは、ただなんとなくその方がわたしにとってしっくりくるからというだけで、実際のところ、わたしと彼女は双子であり、生年月日はまったく一緒、現実として産声を上げたのはせいぜい数十分の差でしかないだろうし、それだってわたしと彼女のどっちが先にこの世に出て来たのか、正直なところわからない。わたしたちは一卵性双生児で、姿かたちはまったく一緒、親でも

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熊と猟師とその妻

熊と猟師とその妻

「熊の仕業だな」猟師たちはその凄惨な死体を見てそう判断した。「それも、かなりの大物に違いない。知恵も働くし、残忍で力も強い」見るも無惨に食い散らかされたのは彼らの仲間のひとりだった。
「慎重なやつだったんだがな」そう言ったのは、殺された猟師の一番の親友だった猟師である。「腕も良かった。いい猟師だったのに。不意をつかれたのに違いない。よほど知恵の回るやつだ」
「熊は手負いだろう」これが猟師たちの見立

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交戦中

交戦中

 妻とぼくは目下交戦中である。と言っても、それは熱い戦いではない。口喧嘩をしたり、まして手が出るようなこともない。皿やコップが飛び交うこともなければ、ましてや包丁を突きつけられたりもしない。逆に、お互いを無視し合い、一言も口を利かず、まるで相手が存在しない存在であるように振る舞う、そんな冷たい戦いでもない。ぼくたち夫婦を第三者が見たら、それはそれは仲睦まじい夫婦という印象を持つに違いない。別に外ヅ

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誰も泣かないし、誰も笑わない

誰も泣かないし、誰も笑わない

 雪が降っていた。音も立てずにそれは白く積もっていった。積もった雪は溶けることなく積もり続けた。季節外れの雪。もしかしたら、それは雪ではなくて灰なのかもしれない。すべて死に絶えてしまったかのように静かだった。事実、町は死に絶えたも同然だった。いや、町はいままさに死のうとしているのだ。
 男は扉を閉め、鍵穴に鍵を差し込もうとして苦笑いした。もう二度と戻って来ないところの戸締まりを気にかけるなんて馬鹿

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そして、世界は滅亡する

そして、世界は滅亡する

 すべては終わってしまった。ふたりの奮闘努力の甲斐もなく、世界は滅亡することが決定した。彼らになら、それを回避に導くことが可能だったのだが、残念ながらそう上手く事は運ばなかったのだ。映画や小説のように、タイムリミットぎりぎりで助かるなんてのは現実にはなかなか無いことだ。そう都合よくはいかない。電車の扉が目の前で閉まった経験を持つ人は多いだろう。まあ、世の中そんなものだ。そして、決定は決定である。変

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未必の故意

未必の故意

 長い長い列に並んでいたわたしは、ふと自分の死んでいることを思い出した。うっかりすると忘れてしまいそうになるのだが、わたしは死んだのだった。忘れそうになるのは、それがあまりにも些細な、もちろんそれを通り抜けたあとだからこんな風なことが言えるわけだが、非常に些細な出来事だったからだ。生と死を分けるものなど無い、というのは言い過ぎにしても、ほとんど無いと言っても過言ではないだろう。その二つの状態にある

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だれかからのハガキ

だれかからのハガキ

 ハガキが届いたけれど、それに書かれた字は滲んでしまっていて、とても読めるような代物ではありませんでした。雨?見上げた空は雲一つ無い青空。雨で濡れてしまったわけではなさそうです。誰かが水たまりにでも落としてしまったのか、誰かがそれの上にコップの水をこぼしてしまったのか、それとも、そもそも濡れて滲んでいたのか。理由はわからないけれど、文字は滲んでいて、様々な想像ができたとしても、読めないというそれが

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美しい耳

美しい耳

 その国は頂点に皇帝を戴き、強固な官僚機構と、強力な軍隊を持つ国だった。大国であり、周りの国々を威圧していた。また、文化的にも優れ、多くの卓越した詩人と、画家と、音楽家を排出したことで世界に名を轟かせていた。科学技術も発達しており、幾多の画期的な発明や革新的な発見を成し遂げた。
 その国における美人の条件は耳が美しいことであった。一重瞼も二重瞼も人々の価値判断には影響力を持たなかった。鷲鼻も獅子鼻

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戦争と平和

戦争と平和

 真夜中の波止場、倉庫と倉庫に挟まれた物陰は、悪巧みにはうってつけだろう。男はそこで誰かを待っている。足元には木製の箱が三つ、かなり大きなもので、男が一人で運んで来たとは考えづらい。恐らく男には仲間がいるのだろう。
 男の方へ、幾人かの影が近付いた。男は身を固くして警戒した。歩み寄る人影の足取りはどれもよろよろおぼつかない。中の一人は足を引き摺るようでもある。やたらと咳をする者もいる。
「誰だ?」

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THE WORLD IS MINE

THE WORLD IS MINE

 男は死に瀕していた。それは男自身にもわかっていた。男は荒く、しかし弱い呼吸をしていた。足掻くことすらできなかった。どうにか生にしがみつこうとしたかったが、その力自体が、男の身体の中には残されていなかった。それは徐々に熱を失おうとしていた。ただの物体になろうとしていた。
 男の傍らに悪魔が現れた。悪魔は男の耳元に口を寄せた。
「お前は死ぬだろう」悪魔は言った。
「だろうな」と男は答えた。
「お前の

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職業・大統領

職業・大統領

「本当にろくでもない国でした」とわたしは移民局の係官に話していた。「役人どもが偉そうにふんぞり返り、わたしたちはいつもビクビク暮らしていたもんです」
 念願叶い、わたしは祖国から亡命したのだった。賄賂が横行し、金持ちだけがさらに金持ちになるような国だった。天涯孤独であったわたしは祖国になんの後腐れもなく、もし祖国になにか一言するとしたら、清々した、の言葉のみだ。本当に清々した。何の後腐れもない。そ

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