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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2020年8月の記事一覧

賭け

賭け

「今じゃタクシーの運転手なんてしてますけどね」と運転手が語り始めたので、これは外れを引いてしまったな、と思った。様々な人間がいるだろうが、タクシーの運転手には黙って目的地まで送り届けてほしいという人間はたいして珍しくもないだろう。しかしながらやっと捕まえたタクシーだ、降りるわけにもいかない、我慢して適当に相づちしてやり過ごそうと思っていたのだった。「学生の頃はちょっと優秀だったんですよ、わたし。就

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誰も悪くはなかった

誰も悪くはなかった

 その遺跡のある土地は、古くから領土問題の焦点になっていた場所で、それが一応の解決をみた後にも散発的に紛争のようなものが起きていたから、ほとんど人の踏み入れることがなかった。まったく、こんな不毛の地を取り合うなどどうかしているとしか言いようがない。そうした争いごとがなくとも、もとから人の入ることがなかった土地なのである。その遺跡は、周囲から隔絶した場所に生まれた系統不明の文化を持った国のものだった

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おとなはわかってくれない

おとなはわかってくれない

 大人たちが困っていた。田舎道で、車が泥にはまって身動き取れなくなってしまったのだ。彼らには一刻を争う用があるというのにもかかわらず。アクセルを踏み込んでもタイヤは泥を撒き散らして空回りするばかり、大人たちの背広を泥で汚しただけだ。まったくと言って脱出できる気配はない。
「まいったな」
 大人たちは頭を抱えるばかり。
 そこにひとりの子どもが通りかかった。年端もいかないような子どもである。汚ならし

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良いことと悪いこととどちらでもないこと

良いことと悪いこととどちらでもないこと

「世の中には良いことと悪いことがあると思うけど」と彼女は言った。「そのどちらでもないこともあると思うんだよね」
「そうだね」とぼくは言った。
「私の良くも悪くもないことの話、聞きたい?」
 ぼくは頷いた。
「昔、目の見えない人と二人っきりで話す機会があったの」と彼女は言った。
 部屋の中にはその男の人と私しかいない。なんでそんなことになったのかは忘れちゃったけど、とにかくそうしてあれこれ

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土に線を引いてみても

土に線を引いてみても

 わたしとしたことが、迂闊にも居眠りをしてしまった。わたしが居眠りをしている隙に、奴は境界線をわたしの目の前に引き直している。ほんの目と鼻の先だ。居眠りから目覚めたわたしの驚きは言うまでもないだろう。それは本来ならば、わたしのいる場所と、奴のいる場所のちょうど真ん中辺りにあった境界線なのだ。およそ3メートル先。そここそが本来境界線のあるべき場所なのだ。いや、これには語弊があるが、少なくともそれより

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それが夢なのだと醒めてしまったのなら

それが夢なのだと醒めてしまったのなら

 女は窓を開け放ち、風を入れた。ほどいた髪が踊った。波の音がした。宿の部屋にこもった空気が入れ替わり、人心地がついた。潮の匂いが鼻をくすぐる。
「そんなに身を乗り出すと」と、わたしは女に言った。「墜ちて死んでしまうぞ」わたしたちの通された部屋は海に面した部屋で、窓から見下ろすと、ずいぶんと下の方の岩場で波が砕けている。落ちればまず確実に死ぬだろう。
 廊下を女中が客を連れて通って行った。時期が

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話せばわかる

話せばわかる

「わたしはね」と、交渉にやってきた男は言った。とても地味な男で、しがないサラリーマンと言った風体、背広は心なしかくたびれている。「物事全部、話せばわかると思っているんですよ。もちろん、時間がかかることもあるでしょう。だけどね、時間さえかければ、必ずお互い満足のいく結果を導けるはずなんです。世の中の争いは、そういう手間を嫌うから起こる。後になれば、話し合いで済ませておいた方が良かったってわかることに

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党の決定

党の決定

 夫と離婚することになった。
 わたしと夫の間に離婚をするような理由は見当たらない。わたしも夫も不義を働いていたということもないし、夫がわたしを妻として見られなくなったということも、わたしが夫を夫として感じられなくなったということもない。それならば、なぜ離婚することになったのか。それは党の決定だったからだ。党の決定は絶対だ。言うまでもなく、党の決定であればそれは絶対なのだ。少なくとも、わたしたち夫

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海辺の町から遠く離れて

海辺の町から遠く離れて

 海のそばで生まれ育ったから、朝、海鳥が騒ぐ声に起こされるのが当たり前だった。風はいつも潮の香りをはらんでいるものだったし、町のどこにいても波が砂浜を洗う音が聞こえないことはなかった。潮の満ち干は、自然の大きなリズムの中にあることを囁いてくれていたような気がする。わたしがそれに耳を傾けることができていたかどうかは別として。
 町を出て行こうと思うということを話した時、彼は「そうか」とだけ言った。古

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耳

 何気なく耳をいじっていたら取れた。耳が。耳は頭の横にある、あの耳だ。パンの耳ではない。耳だ。
「取れた」と、ちょうど向かいに座っていた友人に、取れた耳を見せながら言うと
「ああ、ほんとだ」と、これといって驚いた様子はない。
「普通驚かない?」
「ああ、俺も前にそんなことがあったんだよ」と、友人。
 話を聞くと、彼は以前鼻をいじっていたら取れたらしい。鼻が。鼻は顔の真ん中についているあの鼻だ。野に

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おもいびと

おもいびと

 祖母には想う人がいたそうだ。まだ祖母が若い頃の話。その人は、祖父とは別の人だという。それを聞いた時、なんだか小説か映画でありそうな話だな、と思った。しかし、それはわたしの祖母の話であり、祖父はわたしの祖父だった。小説でも、映画でもない、わたしにまつわるお話。
 わたしの家族は、父の転勤の関係で引っ越しが多かった。全国様々なところへ赴き、そこで数年を過ごす。そして、また別の土地へ。それに伴って転校

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入居者募集中

入居者募集中

 父の趣味は日曜大工だったから、我が家の家具はほとんどが父の手によるものだった。素人仕事なものだから、よく壊れてぼくたち家族は辟易していたのだけれど、父は自分で作ったものだからすぐに直せる、売っているものではこうはいかない、とか言って誇らしげだった。たぶん、既製品ならそう簡単には壊れたりしないのではないかとぼくたち家族は思っていたのだけれど。
 ある時、父が作ったのは犬小屋だった。ぼくの家では犬を

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三文小説家

三文小説家

「君はきっといい書き手になるわ」と彼女は言った。彼女とぼくは同い年なのに、いつも彼女は彼女がまるでぼくの姉ででもあるかのような口調だった。ぼくには五歳年上の、結婚して娘のいる姉がいた。彼女には弟がいた。高校の時に自殺した弟が。
 彼女と出会ったのは大学のオリエンテーションのときだ。右も左もわからずに、手探りで友人を作ろうとしている新入生たちの中で、ぼくたちは完全に浮いた存在だった。たぶん、誰とも喋

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旅立ちの準備

旅立ちの準備

 むかしむかし、ある男が一攫千金を目論んで海に船を出すことにした。まだ世界に知られざる土地のあった時代のことだ。海の向こうには金銀財宝が思うがままにできる黄金の島があるという。また、もしそんなものが無くとも、新しい航路が拓ければそれを使った貿易で一儲けできるだろう。それは男にとって、敗けのない戦いであった。少なくとも、なにかしらにたどり着けたとしたら。もちろん、どこにもたどり着けない、つまり遭難し

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