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べニス・ビエンナーレ 1964年日本代表4名@"料亭みたい"みぞえ画廊・東京

ベニス・ビエンナーレ 1964年日本代表4名展
2023年9月9日(土)~10月1日(日)

会期中無休 10:00-18:00
会場 みぞえ画廊東京店

https://mizoe-gallery.com/

10月までやってて、しかも会期中無休とかいう史上空前の行きやすさ

展示内容はややマニアックというか人を選ぶ感じかもしんないが、たまたまこの辺の美術界隈の動向に興味があった自分にとっては「え、こんな都合いい展覧会ある?」っていう機会だったのでもちろんいった

尚、文中敬称略

場所は田園調布

マジで豪邸ばっかでやばい

駅からは余裕で徒歩圏内なので特に迷うことはないっす

で、ここが現地なわけだが

料亭??

まじですごい
雑居ビルのギャラリーばっかり行ってると、ちょっと入るの勇気いる

入口横には警備員さんが詰めててたまにチラ見えするのでさらにプレッシャー感じる

庭もすごすぎる

どんな展示か&興味あるところ

ステートメントに説明があるため引用

みぞえ画廊東京店では、「ベニス・ビエンナーレ 1964年日本代表4名」展を開催します。

世界各地でビエンナーレやトリエンナーレが数多く開催される中、ベニス・ビエンナーレは、「アートのオリンピック」と形容されるように国単位での参加方法を採り、賞制度を有しています。1895年にはじまった最も歴史の古い国際美術展は、現在では約90カ国の参加を数え、壮大な規模で世界の最新アートを紹介しています。日本は、戦後復興期の1952年に初参加を果たします。

1964年第32回ベニス・ビエンナーレ。日本代表は豊福知徳、斎藤義重、堂本尚郎、オノサト・トシノブの4名。1964年当時、豊福は、ミラノに活動拠点を移して4年目の39歳、斎藤は60歳、堂本はパリに活動拠点を移して9年目の36歳、オノサト・トシノブは、52歳。今ではレジェンドとなった日本を代表するアーティストである4名が、当時どのような作品を出品し、国際的な大舞台でどのような評価を受けたのか資料をもとに紹介します。

展示作品は、豊福知徳の初期から60年代、70年代を通した作品群を中心に、斎藤義重、堂本尚郎、オノサト・トシノブの作品。また、1960年ベニス・ビエンナーレ日本代表8名の中の今井俊満、山口 薫、浜口陽三の作品や1960年ブラジル代表7名のひとりである間部マナブの作品も展示いたします。

公式より 太字は記事執筆者による

というわけで、64年日本代表である豊福知徳、斎藤義重、堂本尚郎、オノサト・トシノブ、およびその2回前(ビエンナーレなので2年おき)60年の日本代表だった今井俊満、山口薫、浜口陽三、そしてブラジル移民で、ブラジル代表として60年に出品していた間部マナブの作品が展示されていた

画廊の取り扱い作家である豊福知徳の作品がもっとも多く、その他作家はその背景説明的な構成(が、でも実作を見れるのはすげえうれしい

個人的に気になってたポイント

  1. 斎藤義重の作品
    60年代に急に出てきて当時非常に高く評価されてたがあんまり作品画像ないので見たかった

  2. 山口薫の作品というか、この時代どう見られてたのか
    作品はたくさん見れるが、けっこうこの時代(特に56年以降)のポジショニングが謎なのでその辺わかんねえかなとか思っていた

  3. 豊福知徳がまったくの謎
    当時の記事に出てた印象まったくないのでどんな作品なのか(東京画廊で個展したそうなので実は出てたっぽいが見逃してる・・・

などなどって感じである

展示風景(64年組)

ちな、会場内は使い捨てスリッパ着用(畳の茶室なども展示スペースなため

豊福知徳

福岡生まれ、上京後、国学院大学国文科中退。終戦後、郷里福岡の木彫家冨永朝堂に師事。
1959年に『漂流'58』で第二回高村光太郎賞受賞。
60年べニス・ビエンナーレ日本代表8名のひとりとして選抜される。
これを機にイタリアに渡り、以後約40年ミラノを拠点に活躍。楕円形の穴をくり抜き、木の表情を生かした独自の抽象彫刻の世界を確立する。
2003年に帰国し、福岡とイタリアを往復して過ごす。2019年に94歳で逝去。

展示説明より 画像ocr
以下、特記なければ同じ

という作家で、大小さまざまな彫刻作品(一部装飾品もあったと思う)が展示されていた

64年のビエンナーレでは以下のような作品を出品していたとのこと

出品作品: 60年からミラノにて活動し4年目 (39歳)。 豊福独特の木彫スタイルを確立した時期。円柱状の大作2点が展示室中央に、 柱状の木彫作品が2点、 ブロンズが1点。 壁面レリーフ状の作品が4点。 合計9点のうち、 4点が欧米の美術館買い上げとなる。

VENTUS(風)Ⅱ, 1978
VENTUS(風), 1962
無題,  1966

64年の展示作品の写真は、説明にある通り大ぶりの柱状の彫刻と、平面レリーフのような作品だった
当時、「彫刻の平面化」(こっちが正面、という作品)が流行(?)していたような話を読んだ記憶があり、そういう流れだったのかもしんない

空洞のモチーフがあり、それを反復して使っているけど、(素材が木だったりするため)抽象にありがちな冷たさがなく、抽象なんだけど民芸にも通じるぬくもりを感じるところが独自の魅力なんだろうなと思った

こういうとことか
こういう、規則の中にある欠けてるところとか

この時代、イタリアの彫刻はけっこういい感じ(誰目線だか謎だが)だが、それに負けない作品になってると思う

当時の記事読んでても出てこない理由としては、やっぱり登場してすぐミラノ行っちゃって国内で活動してないことが大きそうである
(この後NYへ流出するネオダダ系の作家も同じ、荒川修作とか

ただ、「戦後20年の画壇エリート」(美術手帖 1965年8月 第256号)の図には「海外在留作家」として名前が載ってるので、存在はちゃんと認知されていたっぽい

斎藤義重

さいとう・よししげ、だと思うんだけど、ギャラリーの人は「ぎじゅう」と呼んでたので、慣用的にそうなんかもしれない
これからは「ぎじゅう」と呼んで玄人っぽさ出していきたい

1964年日本代表二人目は、斎藤義重(当時60歳)。青森生まれだが、本籍は東京・四谷。子どもの頃より父の書斎にあったヨーロッパの画集などに親しみ、独学で油彩画を描きはじめる。16歳の時、ロシア未来派の展覧会を観て衝撃を受ける。30年代ロシア構成主義やダダの影響により立体作品を中心に造形活動に入る。33年、古賀春江、東郷青児らが主宰したアヴァンガルド洋画研究所に参加。38年、吉原治良、山口長男らとともに九室会、翌年には福沢一郎らと美術文化協会を創立。50年代半ばから国内外の評価が高まる。58年瀧口修造の紹介により東京画廊で初個展開催。60年ベニス・ビエンナーレ日本代表8名のひとりに抜擢。61年サンパウロ・ビエンナーレにて国際絵画賞受賞。64年に再度ベニス・ビエンナーレ日本代表4名のひとりに抜擢。同年、多摩美術大学教授となり、教え子からは、もの派の作家が多く輩出された。60年代前半は、電動ドリルで合板に点や線を刻み、赤や青で彩色する作品を制作。70年代は、簡潔な構造の単色で塗られた合板レリーフ作品。80年代は木をボルトで連結した立体作品。晩年は黒に塗装した合板を使った立体作品を制作。

「50年代半ばから国内外の評価が高まる」のはこの時代の抽象画の人としてはめっちゃ遅咲きな印象
実際、当時の記事読んでても、急に現れ、すぐ評価固まる感じの特殊なパターンの出現をしてる(似たような現れ方として菅井汲がいると思う

富永惣一が独自性をほめてるように(この人にほめられる=いい、と判断すべきかは若干怪しいが・・・)、当時の「何となくアンフォルメル」な画ばっかの中で、けっこう独特の絵を完成させてるのはすごい気もする

展示されてたのはだいぶ後の作品で、小さめの半立体

反対称, 1980

近年、再評価が進んで、作品の収蔵に向けた動きが起こっているらしい

堂本尚郎

1964年日本代表三人目は、堂本尚郎(当時36歳)。京都生まれ。日本画の堂本印象は叔父にあたる。当初日本画を学ぶが、52年叔父と渡欧し、パリで油彩画を体験する。55年再度渡欧し、本格的に油彩画を手がけるようになる。評論家ミシェル・タピエと出会い、アンフォルメル運動に参加。57年タピエの紹介でスタドラー画廊で個展、作品が完売する。58年パリ在住外国人青年画家展でグランプリを受賞。59年マーサ・ジャクソン画廊(NY)で個展。同年第一回パリ青年ビエンナーレに出品。60年に日本の南画廊で初個展。61年サンパウロ・ビエンナーレに出品。62年アンフォルメル運動から距離を置くようになる。この頃から画面に帯状の色面が重ねられていく「連続の溶解」シリーズが約10年続く。63年サンマリノ・ビエンナーレで金賞を受賞。64年ベニス・ビエンナーレでアーサー・レイワ賞を受賞。65年から東京を拠点に活動。79年にパリ市立近代美術館で日本人初の回顧展開催。2005年に世田谷美術館と京都国立近代美術館にて回顧展開催。

出品作品:63~64年の「連続の溶解」シリーズ12点を展示。特に大作『連続の溶解57』が注目された。12点のうち、ローマ国立近代美術館が2点、トリノ市立近代美術館が1点買い上げた。

このあとに登場する今井俊満とともに、ミシェル・タピエのアンフォルメルに参加して大変なことを引き起こした人。
奥さんの毛利眞美も作家で、ロートに師事してキュビズムを学んだ後、脱却して色彩ゆたかなフォルムの絵にたどりついた。正直旦那よりいい絵を描いてたんじゃね?と思ったりしないわけではない(←ちょい前に南天子画廊で展示があったときの感想)

当時すでにかなりの名声を獲得してるので、このとき堂本・今井がまだ30代であることにビビる

無題, 制作年度不詳

年代書いてなかったが、作風からして62年以降に見える
(タピエのころによく出てた画像は全画面絵具炸裂系で、こんなあっさりではなかった

オノサト・トシノブ

漢字で書くと小野里利信。
当時の記事でもたまに漢字表記になってて、そのたびに混乱
あと、オチ・オサム(九州派)と間違いがち

1964年日本代表四人目は、オノサト・トシノブ(当時52歳)。長野県飯田市生まれ。本名、小野里利信(1949年よりカタカナ表記を用いる)。日本大学工学部電気科を中退。22年父親の転勤により、群馬県桐生市に移る。35年、二科展に初入選するとともに、長谷川三郎の影響のもと、清野恒、野原隆平らと前衛美術団体、黒色洋画会を結成。37年、自由美術家協会の創立に参加。40年、《黒白の丸》に代表される構成主義的な作品を発表したが応召。戦後、シベリアに抑留され、48年まで制作中断を余儀なくされる。復員後、50年代には、輪郭をもたない単色の円をひとつ、あるいは複数並べ、幾何学的なかたち、緊密な線描によって「ベタ丸」と呼ばれる作品世界を展開。独自の絵画様式を確立し、国際的にも高い評価を得た。以後、86年に没するまで、群馬県桐生市にて半世紀にわたり一貫して「丸」を描き続けた。63年、第7回日本国際美術展で《相似》が最優秀賞受賞。64年、66年のベニス・ビエンナーレ日本代表。

出品作品:『壁画・ABCD』は、1959年美術評論家の久保貞次郎の依頼により制作が進められた作品で、62年に完成した。久保は、66年の日本館コミッショナーで再度、オノサトを代表に選出した。この作品のほか、最新作の油彩4点、合計5点出品。『作品64-ABCD』は、縦4メートル、横4メートルの大作(展示画像参照)。

オノサト・トシノブの作品は「細かい四角で画面中が規則的に覆われてる」形が多く、めっちゃ判別しやすい
もうすぐ「あ! オノサトだ!」とわかる
現代でたとえると、草間彌生のドットなみにわかりやすい

展示されていた作品は、タイリングのパターンが四角ではなくなる形に進化しているので、自分がよく見ている時代のものより後っぽい(年度不詳)
が、この色使いとか、中に表れる円とかは特徴を維持している

無題, 制作年度不詳

展示風景(60年組)

他にも展示されてるが、とくに個人的な興味のある今井俊満、山口薫についてだけ

今井俊満

64年組ではないので作家紹介はさぼるが、堂本のところに書いた通りにアンフォルメルに参加した作家
なので、ネオダダとかよりも一世代前っていう印象あったんだけど、実際にはほぼ同世代(ちょい先輩くらい)で、このあと65年に読売アンデパンダンが中止されたあたりで文字通りの大暴れをする篠原有司男も今井の知り合いだったりする(篠原自伝によると帰国前に実家に遊びに行ってお母さんに写真見せてみもらったりしている)

で、これはギャラリーの方に教えてもらった話だが、今井は「自分が具体をタピエに紹介した」と語っていたらしい

この辺(57年にタピエが具体の吉原治良を訪ねて作品見る流れ)ってだれがどうアプローチして実現したのかよくわかんないんだけど、確かにありそう

今井はアンフォルメルの人ととらえがちだが、篠原とツーカー(死語い)だったりするあたり、そうとう前衛というかアヴァンギャルドに感度高かったんではないか、だとすれば具体について知ってても不思議はない

とかなんとかいってないで作品だが

無題, 1963

めっちゃ厚塗りである
横から見るとかなり隆起してるのがわかるくらい

63年といえば、もうアンフォルメルのさわぎもひと段落してというか、批評家がいまさらの総括をしてるんだけど、その一方もうそろそろ「反芸術」とか東野芳明が言ってしまうような事態も発生している頃ではある

その時期に描かれた作品だと考えるとかなり興味深い

山口薫

個人的に一番関心のあった作家
なんでかっていうと、この時代のポジショニングが極めて微妙だからだ

アンフォルメル以前の洋画界は、雑にいうと安井曾太郎がトップで次が林武という構造だった
55年にその安井が亡くなり、ちょうど同じ年の日本国際美術展で大賞を取るのが脇田和、そして脇田と賞レースで競っていくのがこの山口薫になる
いよいよ俺たちの時代だ!って感じで評論家もふたりをほめている

が、ご存じのようにその直後の56年にアンフォルメル旋風57年にはタピエが来日(今井も帰国)し、関西でやってた具体美術協会の作家たち等がいきなり激賞される
するとみんな一気にアンフォルメル(非定型)絵画に夢中になってしまい、もう完全に気分はもう抽象!な時代になってしまった
(たとえば白髪一雄なんて足で描いてた

そんな時代に、日本モダンアート界の旗手として「抽象と具象をまぜたような」、ある意味中途半端な表現に挑んでいた脇田や山口にとってはすべてがひっくり返ったわけで、そうなると、「で、このあとどうしてたんだ?」というのが自分の疑問だった

結論からいうと、たぶんそのままだったんだろうということになる

というのは、このあとはもう画壇と前衛(篠原、荒川、ハイレッドセンター)が完全に分離し、どっちも相手にしない、別世界の存在みたいな感じになってしまったため、特段何もしなくてもよかった

作品名とかメモしてない・・・ ガラス反射してるのでこれが限度である

という感じで山口薫の作品を見たわけだが、、、
当時の記事で見てても、どうしてこの絵が評価されるのかよくわかんなかったのだが、実際の作品みてもやっぱりよくわからんかった

あくまで未来人の視点なのでフェアではないが、55年ならもう靉嘔河原温(しかもあの「浴室」シリーズ、靉嘔の「田園」はもっとあと)も世に出てたわけで、それでもなお脇田や山口を推す理屈はよくわからない

まあ、批評家もアイオーにも河原にもとくに反応してなかったので、当時の目には「脇田、山口作品の方がよく見えていた」と考えるしかない

ちなみに結果はどうだったのか

という感じの64年日本代表
賞を取れたのかどうか、前後の開催とあわせて(wiki頼りで確認すると)こんな感じである

・60年(第30回) ※今回の展示に関係
 ・大賞:フォートリエ、アルトゥング他
 ・日本代表:今井俊満、山口薫、浜口陽三、斎藤義重、豊福知徳、小野忠弘、佐藤敬、柳原義達(コミッショナー:富永惣一)

・62年(第31回)
 ・大賞:マネシエ、ジャコメッティ他
 ・日本代表:菅井汲、杉全直、江見絹江、川端実、向井良吉(コミッショナー:今泉篤男)

・64年(第32回)
 ※今回の展示に関係
 ・
大賞:ラウシェンバーグ、ケメニー
 ・日本代表:斎藤義重、豊福知徳、オノサト・トシノブ、堂本尚郎(コミッショナー:嘉門安雄)

・66年(第33回)
 ・大賞:ル・パルク、池田満寿夫他
 ・日本代表:池田満寿夫、オノサト・トシノブ、靉嘔、篠田守男(コミッショナー:久保貞次郎)

というわけで、残念ながら賞はとれていないが堂本がアーサー・レイワ賞(40歳以下で初出品の中でのコンペ)を受賞したが、それ以外はだめだった。しかし、しゃあなしだと思う
※間違ってたので訂正した

64年の絵画で大賞とってるラウシェンバーグは、その当時の言葉でいうと大雑把に「ポップアート」とされている
(いまでは「コンバインド・ペインティング」とか呼ばれてるっぽいが、当時の記事には一言もそんな記述ない

ポップアートといえば、ウォーホルとかリキテンスタインを思い出すが、ぶっちゃけアメリカはもうそこに行ってるので匹敵する作品をぶつけられるか?と言われると厳しい

また、彫刻で大賞とってるケメニーもめっちゃ迫力のある、いわゆる正面のある系の立体で、まあそりゃこの時代にこの作品出してたら賞とるよな、という説得力・・・

マイ・ドリーム64年日本代表

しかし、この時代の日本には実力のある作家、時代を先取りする作家もいた!(はずだ)

このままだと悔しいので、もしかりに「自分がコミッショナーで、画廊とかパトロンのしがらみを抜きにして自由に作家選好できるとしたら、64年の代表に誰を選ぶか?」を書いて〆にしたい

というわけで、以下選好作家とその理由である

元永定正(絵画)

かなり悩むが、具体美術協会から元永定正を選出
ラウシェンバーグやエルズワース・ケリーと戦うことを考えると、垂らしこみのでっかいの作ってもらえそうな所がよい説

磯辺行久(絵画)

ワッペンではなく箪笥、フスマ的なので勝負
そもそもあれは絵画なのか?という点が良いし、日本的文脈の濃度も高いと考えるとふつうに勝てそう!

小島信明(立体)

ティンゲリーもどうやって作ったのか聞いてたっていう、あの星条旗被った「作品」はどう考えてもいけるでしょ
山口勝弘の「Cの関係」でもいける気がするので正直どっちもあり

多田美波(立体)

「周波数」シリーズはケメニー作品に負けてない

※ほかに考えられる候補
 ・桂ユキ子(絵画)
  ポップアートを飛び越してキャラクター的なとこまでいってそう
 ・小牧源太郎(絵画)
  
「夏の子」の方向性でポップアート先取り
 ・中辻悦子(インスタレーション)
  
<ポコ・ピン>のインスタレーション 超みたい
 ・荒川修作(絵画)
  ふつうに強い あの骨のやつ
 ・中西夏之(絵画???)
  洗濯バサミ!!! 出禁になりそう!

とりあえずそんなとこです!!!!

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