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森本啓太 「A Little Closer」 / アルフレド・ジャー「終³」/ そしてある日のピラミデビル

一階にあるペロタンに行ったら、ほかでもちょうど「この日から」な展示が2つあったのでそれを中心に
ついでにこのピラミデビルにあるほかのギャラリーについてもざっと

ぺろたんでみたものは以下っす

以下、文中敬称略

森本啓太 個展 「A Little Closer」@KOTARO NUKAGA

【開催概要】
「A Little Closer」
会期: 2023年7月29日(土) – 9月16日(土)
開廊時間: 11:00 – 18:00 (火-土) ※日月祝休廊
会場: KOTARO NUKAGA(六本木)
住所: 〒106-0032 東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル2F

https://kotaronukaga.com/news/4580/

ばりばり開催中!!
日・月休廊のデフォ運営、特に気を付けないでいいのも助かる

行ったらちょうどオープニングで来客がわいわいしており、関係ない自分もサンペレグリノをごちそうになったっす! 感謝!!

▼作家について

1990年大阪生まれ。現在、東京とカナダを拠点に活動。
森本は風景画や人物画を、レンブラントやエドワード・ホッパーを連想させるドラマチックな光の表現を用いて、古典的な技術を現代に持ち込み、ありふれた街並みを劇的な世界へと変貌させる。自動販売機やファストフード店、駐車場といった日常的な主題に焦点を当てることで、森本は現代の生活における構造的な脆弱性や道徳的規範に疑問を投げかけている。「光」という歴史的にも象徴的なモチーフを扱うことで、自然で神秘的な意味合いを消費社会と産業文化の製品に結びつける。

https://kotaronukaga.com/artist/keita-morimoto/

「古典的な技術を現代に持ち込み」って、そもそも絵を描くことがそれ(古典的な技術)じゃね?と突っ込んでしまうが、それは置いといてじゃあカメラ・オブスキュラとか使うんかとかバカなこと思ってたら当たらずも遠からずだった(いや、やっぱ遠いかも

会場がにぎわってたのであんまりぱちぱち写真とる気にもなれかんったのであんま画像はない

▼展示風景とか感想とか

Liquid Reverie, 2023

エッッッッモ!!!

別にこの作品だけじゃなく、どれもそういう印象ある
なんていうか、ちょっとまえのドット絵(? なんじゃそりゃ)に似た「あったかみのあるドット絵」みたいな感覚
クロノトリガーからグランディアくらいのドット絵
(あったかみは色調の話だから、あんま適当ではないかもしんない

なので自分は、これはレンブラントやエドワード・ホッパーから来てるっていうより、ドット絵文脈のエモさ表現を絵画に持ち込みつつある時代の何かなんじゃないか、と

もちろん遠縁の親戚にはレンブラントもいるんだろうけど、圧倒的に豊井のほうが近所
植物も菌類もどっちも人間と関係するが、しいて言えば菌類の方が人間に近い、程度の話だ(君たちはどうたとえるか

※個人の解釈です

▼ステートメントはなんと言っているのか

↑にあるステートメントから抜粋してみていってみる
冒頭のセグメントは割愛(あんま関係なかった)して2段落目から

森本の絵画は「〇〇」であるとラベリングされることから逃れていきます。見る者が言葉を重ね、編まれた物語を紐解き、全体を捉えたと思うや否や、気がつくとするりと軽やかにそこからすり抜けます。高校を卒業後、単身カナダへ渡り、16年という長い歳月をトロントで過ごしてきたことは少なからずそれに関係しているのではないかと考えられます。森本の絵画に対する姿勢は確固たる中心的なアイデンティティを前面に押し出し、強烈に何かを訴えかけるというよりも、常に他者のいる位置に立ち、そこからの視点で対面する世界を描き出しているといえます。

正直ここちょっとよくわかんねえんだけど、とりあえず先へ

一昨年の個展「After Dark」では、カナダからの帰国直後、日本とカナダという森本自身の「アイデンティティ」が揺れ動く特異な視点を通し、東京という巨大都市の夜に、人々が目的地へ向かう途中で見逃されてしまうような「何でもない場所」を一時的に私たちが現実世界から逸脱し、逃げ込める場所である「ヘテロトピア[i]」として描き出してみせました。「結果や目的」ばかりが急がされる現代の都市生活が作りだす「生きづらさ」に対して、何気ない日常を特別なものにするという「自由」、つまり、自分自身のあり方を決める「自由」は奪われることはないということを森本は絵画表現によって体現してみせたのでした。森本はすこし外側、すこし違った視点からわたしたちの中に別なる場所である「ヘテロトピア」を見つけ、多くの「共感」を生み出し、鑑賞者の心を揺さぶりました。

作家の意図は、自由は何気ない日常を特別なものとする、その自由は奪われることはない、ということを絵によって体現することにあり、つまり逆にいうと、「何気ない日常が自由によって特別になってる」瞬間が描かれている、ということになる(のかもしんない

缶ジュースのんでるとか、冷蔵庫を開いたときとかの絵だから、確かに一貫してそう

つぎのセンテンスでなぜかポエムが始まったのでそこは飛ばした(↑のリンク先で鑑賞してくれ!!

1960年代後半、写真表現はパーソナルな視点を取り入れることで、日常を「特別なもの」として再発見するということに一役を買いました[ii]。一方で、現代において、わたしたちは世界の多くを直接的にではなく、写真を通して見るようになっています。森本の写真を元に構成し描かれた絵画は、アーティストの思い描くフィクショナルな世界というよりは、日常の中から「特別な瞬間」として選び抜かれ、リアリティをもって描き出されていると言えます。森本は絵画制作のために撮影した写真の中から「ごく稀に絵画になるものがある」と口にします。被写体となった彼ら彼女たち、さらには彼らの置かれた背景との重なりによってそれぞれの人生には輝きを放つ瞬間がたしかにあると言えるのです。森本はまさに自身の靴を脱ぎ、相手の靴を履くようにして彼ら彼女らを理解しようとし、その輝くエモーショナルな瞬間を追い求めているのです。

ここは重要なことが書いてあって、「森本の写真を元に構成し描かれた絵画」ってことはつまり写生じゃない
「古典的な技法」の1つはこれなんじゃないか、と思った

この先は態度として「エンパシー」(共感)の作家である、というようなことが書かれてるが、実際どうかは本人にしかわからんのでスルー

で、むすびになるわけだが

巨大化し過ぎた資本主義、加速し過ぎた情報化社会という現代において、わたしたちはこの自分らしくいる「自由」を見失いかけてはいないのだろうか…ということがまさに問われています。現代社会における多くの個人がSNSによって比較し続けられ、加速する消費に巻き込まれ疲弊しているのです。さらには、帰属性のアイデンティティを押し付けられ、「あなたは何者です」とラベリングをされ続け、社会や組織のために生きる脇役に追いやられてしまっています。2021年、Art Review社のPower100 において第10位にも選ばれ、アナキストで人類学者、日本でも『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』の著者として知られるデヴィッド・グレーバー(David Rolfe Graeber、1961-2020)はアナキズムと民主主義はほとんどイコールで結ぶことができると述べました。社会システムによる「ラベリング」に抵抗し、自分が何者であるのか、何を良しとし、どんな瞬間を美しいとするのかといったことを他者の手に委ねないこと。このことこそ人間が人間らしく生きる上で最も重要なことであり、それが大きな自由を獲得することにつながるのだということを森本は自身の絵画を通して提示し続けてみせています。

末尾のご高覧ください的な挨拶は引用せず

いきなり始まる「ブルシット・ジョブ」&社会批評!!
ただアングル的に別に作家の思想、って感じではなくこれを書いてる人の思いだと思うので混乱する

そもそもこの作品は社会問題にエンゲージする意図があるのかどうか、そういうナラティブとの距離感が謎(→なのでこの段落が唐突

ちょうど下のペロタンやってる展示では、「いや、この作家はノンナラティブっす」と宣言してたくらいなので、無理にこういうアングルつくらないでもいいんじゃないかと思うし、それの方が昨今だと勇気ある態度なんじゃないか

アルフレド・ジャー「終³」@SCAI PIRAMIDE

公式は「アルフレド」 会場は「アルフレッド」なんだよな
細けえことは気にすんな!

アルフレド・ジャー
「終³」

2023年7月29日(土)- 9月30日(土)

※予約不要
開廊時間:12:00 - 18:00
※日・月・火・水・祝日 休廊
※ 夏期休暇:2023年8月10日(木)- 20日(月)

協力:森山大道、 KENJI TAKI GALLERY、AKIO NAGASAWA GALLERY

https://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibitions/2023/07/alfredo_jaar_end3/

日・月・火・水・祝日 休廊!!!!
やってる日書いてくれた方がはやい!!
木・金・土しかやってない

ぺろたんが1F、いっこ上に書いたKOTAROが2F、でここSCAIは3Fになる
(ちなピラミデビルは4Fまである

ちな「ドアしまってる」&「なか一切見えない」のコンボで、最初まえ通ったときふつうに「休み」判定立ててたが、たまたま中からオープニングパーティ中のおねえさんがバァンと出てきてくれたおかげでやってることに気づいた

とりあえずここもはじまったばっかり! まだぜんぜん間に合う!!

以下、文中敬称略

▼作家について

アルフレド・ジャーは1956年にチリのサンティアゴで生まれ、同地のインスティテュート・チレーノ・ノルテアメリカーノ・デ・クルトゥラ(1979年)とウニベルシダ・デ・チレ(1981年)で学びました。彼の作品はインスタレーション、写真、映画、地域ベースのプロジェクトを通じて、大衆が画像に鈍感になる現象や、芸術がジェノサイド、疫病、飢饉などの出来事を表現する限界を探求しています。ジャーの作品は軍事紛争、政治腐敗、先進国と発展途上国間の力の不均衡を証言しています。彼の作品は、ルワンダのホロコースト、ブラジルの金鉱採掘、ナイジェリアの有毒汚染、メキシコとアメリカの国境問題など、さまざまなテーマを扱っています。ジャーは1981年、ピノチェトの軍事独裁政権の最盛期にチリから移住し、現在はニューヨークで生活し、作品を制作しています。

引用元: Art21

GPT4よる要約

めちゃめちゃ社会派 現代美術の王道って感じだ
(公式ではおもに今回の展示にまつわる感じの紹介だったので、もっと違うとからの引用

アーティスト、建築家、映像作家として知られるアルフレド・ジャー(1956年チリ、サンティアゴ)は、ミニマリズムの厳格な語彙を用いて、文化や政治の危機的状況を表現する学際的なプロジェクトを展開しています。社会的不公正に関する彼の一貫して献身的なリサーチは、偏向したメディアソースが作り出す情報の闇を暴き出し、人道的な洞察を通して現実の周縁に光を当てます。広島市現代美術館で開催される第11回ヒロシマ賞の受賞記念展、そしてチリ国立サンティアゴ美術館での回顧展に合わせた本展では、ジャーの新作彫刻に並び、長年の友人である写真家 森山大道とのコラボレーション作品を初公開いたします。

ステートメントより

今回は「第11回ヒロシマ賞の受賞記念展」および「写真家 森山大道とのコラボレーション作品」があるってことだすな
広島市現代美術館でも同作家の展示をしており、そっちの文脈とあわせてみるとより理解できるんじゃないか説だが自分はちょっといけない

▼展示風景とか感想とか

《Silent Flash》 (2023)

約3メートルの金属製ライトボックスに固定された、帯状に連なる半透明のスチル写真であり、広島を中心とした近代政治史に言及しています。映し出されているのは、爆心地の近くに残る原爆ドーム(広島平和記念碑)の空撮イメージです。世界遺産であるこの建造物を史上初めてドローン撮影することを許可されたジャーは、その真上にドローンを飛ばし、垂直に見下ろす鳥瞰パースペクティヴを用いて、カメラと対象の関係性を規定しています。空から落下する原子爆弾の「目」となり、着実に高度を下げながら地上に向かって垂直に移動する高画素イメージは、ドームの細部までとらえ建物に接近しますが、ある瞬間に真白いフレームに移行します。

って説明されるとそのまんまなんだけど、いきなり見ると原爆ドームであることがわからんかったので、そこがまじかよってポイント
あと原爆の視点というのも、「どっちの立場から描くか」問題を回避したフラットな目線としてありだと思った
(エノラ・ゲイ視点と原爆視点は違う、と解釈してる

で、そのおくに見える赤い光が何かっていうと・・・

《Bye Bye Photography》(1988)を中心にした展示風景

A single red darkroom lightbulb as a tombstone for the death of analog photography. Alfredo Jaar (from 1988) in the Color Effects group show at Galerie Lelong.


アナログ写真の死を象徴する一つの赤い暗室の電球としての墓標。アルフレド・ハール(1988年作)、ギャラリー・ルロンで開催される「カラーエフェクト」グループ展にて。

https://collectordaily.com/alfredo-jaar-galerie-lelong-2/
対訳:GPT4

で、それを中心に写真暗室を模した部屋全体が森山大道の写真作品とのインスタレーションになってる

森山大道とのコラボレーションとなるインスタレーションでは、ギャラリー空間を赤い照明が灯る暗室に作り変え、森山の写真集《写真よさようなら》(1972年)から「アレ・ブレ・ボケ」に特徴付けられる複数のイメージが浮かび上がります。赤い光を灯すのは、森山へのオマージュとしてジャーが1988年に制作した彫刻作品《Bye Bye Photography》(1988)です。ジャーが初めてデジタルカメラを購入した日に制作されたこの暗室用の吊り下げ灯に近づくにつれ、赤い光は強まり、かつてアナログ写真に必要とされた化学的なプロセスや制作環境を強調します。二人のアーティストの初期作品と、写真というメディアに対する自己批判を振り返る本インスタレーションは、ソーシャルメディアやAIによる画像生成などデジタルイメージが飽和する現代において、いっそう示唆に富む対比を引き起こしています。

で、もう一部屋あって、そっちには《The End of the World》(2023年)という、コンセプチュアルアートそのものみたいな作品もあったんだけど人が多かったためパチパチはしてない

展覧会の最終章では、《The End of the World》(2023年)と題された世界初公開となる彫刻作品が展示されます。ジャーはそこで、持続可能な目標への移行に必要な「重要な原材料 (Critical Raw Material)」をめぐる現在の経済政策を批判し、枯渇しつつある資源がいかに政治的危機の引き金となり、煽り続けているかを指摘しています。銅、リチウム、レアアースを含む十層の鉱物がかたち作る4cmの立方体は、ギャラリー中央に置かれた台座に鎮座し、そのミニマルな物質性を強調しています。また、立方体の直線的で本質的な形は、これらの素材が自然の生成から産業的な製造工程を通じて彫刻作品として置かれるまでの一連のサイクルを物語っているといえるでしょう。鑑賞者はそこで足を止め、自らの立ち位置を再考し、生物圏や地球環境の現状について想いを巡らせることとなります。

ちなみにこの作品のために地質学者の先生が書いた各鉱物についての分厚い説明書が現場(の、バーカウンターみたいなところ)にあった(ちゃんと日本語)
リサーチ系の作品は作品の中で説明しようとするあまり文字情報爆発して、インスタレーションみてんだかでかくて読みにくい新聞読んでんだかわかんなくなることあるので、こうして分離して意味を伝えようとしてくれるのは助かる!

写真家本人が現像した直後はこんな色で写真みてたんかな、みたいなことを思いながらみた

あ、ペリエごちそうさまでした
久々に飲んだら激うまだったわ

クリス・ヒュン・シンカン 個展「A Day in the Life」@"柱がいい"オオタファインアーツ

ぜつみょうにみにくい文字色

入った瞬間、芳名帳(でいいのか不明)もったおねえさんがダッシュで近づいて記名を求めてくるやる気に満ちたギャラリー

会期とかは以下 ばりばり開催中!!!

2023年7月1日 - 8月19日

Tuesday - Saturday 11:00 - 19:00
Closed on Mondays, Sundays and National Holidays

ちなみにオオタファインアーツは「7CHOME」というのもあるので注意

▼作家について

クリス・ヒュン・シンカンは、自身の家族や身の回りの風景をおもに描いたペイティングを制作することで、「見る」という行為を通して人はどのように物事を理解するのかに焦点を当ててきました。

彼の技法は、水墨画の影響から抑えられた筆使いでモチーフを描くことに特徴づけられます。記憶を頼りに描かれたモチーフはどこかおぼろげですが、そこには独特の時間と空間の捉え方が見て取れます。ヒュンの作品には「認識する」ということが時間と空間を経て変化していくことが示唆されており、キャンバスに残された白い余白は忘れられた記憶を表現していると言えるでしょう。彼の作品に見られる立体感のねじれや異なる濃淡で表される光のコントラストは、一日の移ろいを複眼的に描写しているかのようで見る者を強く惹きつけます。

https://www.otafinearts.com/ja/artists/36-chris-huen-sin-kan/

▼展示風景とか感想とか

素朴な味わいのある筆致という感じだった
ちょうど都現美でホックニー展をやってるが、似たような問題意識というか、人の注視点が意外と狭い問題を、絵の中で拡張してぜんたいに焦点あたってるような、そんな表現をしたいのかなと思ったりもした

↑の作家の紹介にも「「見る」という行為を通して人はどのように物事を理解するのかに焦点を当ててきました」とあるので、そんなにこの感想は作家の意図から外れてないと思われ

どれも写真の印象よりずっとデカイので、興味わいたら現地でみてもらいたい

以下ステートメントもいちおう転載

オオタファインアーツでは、香港出身のペインター、クリス・ヒュン・シンカンの日本では4年ぶりとなる個展を開催いたします。ビートルズの代表曲「A Day in the Life」を展覧会タイトルとする今展では、2021年に活動拠点を香港からイギリスに移して以降初めてとなる、室内を題材とした作品群を紹介いたします。

ヒュンは日常の出来事を観察し、主に家族や身の回りの風景をモチーフとしたペインティングを制作しています。写真やスケッチに頼らず、スタジオのキャンバスに向かいながら頭の中の記憶をたどってイメージを膨らませる工程により、時に複眼的な構図を作り出します。中国水墨画の影響から、抑えられた筆使いで表現される画面には、時に空白や曖昧さを残しながらも多くの要素が登場します。今回の新シリーズでは、一日の中で継続的に移り変わる室内に差し込む日の光が、ヒュンの主観を通して、それぞれのペインティングに独特の相異なる色彩を与えています。常に「見る」という行為を通じて人がどのように物事を理解するかに焦点を当ててきたクリスにとって、長年過ごした故郷を離れ、新しい家や家具に囲まれた新天地での生活は、制作に大きな影響を与えました。

躍動的なコンポジションに、新たな陽の光によって柔らかい広がりを持つようになった色面と、そのなかに溶けてしまいそうなモチーフというこれまでにないレイヤーが加わったヒュンの絵画を、どうぞお楽しみください。

あと、ぜんぜん関係ねえ話でアレなんだけど、ギャラリーの中に立ってる柱
こいつがいい味出してる!
ほんと、マジでいい柱なんで見てくれよな!!

リー・マキシー、楊博 「Between」@YKG

リー・マキシー、楊博
Between

CURRENT
2023年7月5日(水) – 8月12日(土)
12:00 - 19:00 日・月・祝 定休

二人展!!
あんまりちゃんと見れてないので詳細は割愛

Yang Bo "in front of the station"(12,21,19,20)", 2023

この作品、いいやん!みたいに思ったんだけど、左端のところにサイコロが何個か止められてて、「これなんすか?」みたいなアホみたいなことを聞いてしまったわけだが、いま作家は絵画作品にこういう既製品的なものを組み合わせる試みをしている(うろおぼえ)、というようなことを言われた

サイコロで出目が作品名にも書いてあるということは、何かしら日常での偶然性とかそういうことを含意しているんではないかという気もするが、勘違いの可能性はある

(会期終了)片山博文 個展「羊をつくる」@TARO NASU

最終日駆け込みおじさん

これ! すげえよかった(個人の感想です)ので、終わってから書いてんのがくやまれる・・・

ちな↑の公式読まないで展示風景の写真から見てもらった方がおもろいので、いったん↑はスルー推奨

▼展示風景とか感想とか

ちなみに自分も前情報いっさい見ないで行った

だからなぜそんな足元に・・・

入るとこんな感じで
手前に「本のページかな?」みたいなものがならび、正面奥は木の写真っぽい
この時点で「はは~ん、これは写真展やな」みたいに思っている

展示風景

で、本のページには何が書いてあるん?と思ってみたのがこれ
あんまりみえないかもしれないが、じっさいよく見ても何が書いてあるのか判読不能

ここですぐ意見を修正した
「版画やん」

版をずらして印刷とかしたらこんな感じになりそうだから、きっとテーマは情報の複写におけるエラーの発生、そしてそれが進化の源になっていることへつなげるって感じやろ!などと妄想

そんで次は木の方に行ってみる

よるとこんな感じで、別に「ふつうの木の写真やん」になる
おまえ5秒前は「版画」いうてたろ、って感じだが、メディウムを固定化しないことは現代の作家にとって必須の条件、などと言い訳はできる

まあ、写真もプリントの時にエラーが起きないともいえないし、あるいは(版画=印刷も含めて)大量複製の中におけるエラーにより個性の発生、とかのテーマだったのかもしんない、などと思いなおし、ひいてはそっから大量消費社会と資本主義体制による個の抹殺という社会批評へつなげて〆や!最後ははやりの本を引用してな!まで方針転換(どっかのステートメントでみた)

で、角を曲がってみると、最後に出てくるのは「羊」
これもまあ、写真っぽい

ちょい時代おくれでヤングにとっては初耳だろうが、羊といえば「クローンの象徴」!そしてディックの「アンドロイドは電気羊~」の暗喩!となるとやっぱりテーマは「(人工的な)複製とエラーと個性の関係性」じゃい!と自信を深める

というところまで行った最後にステートメントのチラシがおいてあって、ここでネタバラシ(いや、最初から展示概要読んどけば最初にわかるんだけど)

10年ぶりとなる個展「羊をつくる」において、片山博文は人工知能による画像生成である敵対的生成ネットワーク(GAN)の手法を用いた新作を発表する。展示されるすべての作品は、片山自身が撮影した大量の写真を学習データとして使用することで生成されたイメージである。遡れば、2013年、片山が発表した「Vectorscapes」シリーズは、写真をパソコンに取り込み、イメージを数値へと変換させることで、 写真の姿を借りたコンピューターグラフィックス=「偽物の写真」を作り出す作品群であった。今回の新作もまた、技法は異なるものの、写真の偽物を作るという、片山が追求し続けてきた主題が繰り返される。

公式ステートメントより抜粋
太字は記事執筆者による

そう、今見てきたのは版画でも写真でもなくて、AI生成イメージだったのだ!!
そういえば木の写真の背景とか、羊の毛のおくのほうとか、なんかあやしいモヤり方してたじゃねーかと思うがあとの祭りだ

1968年に出版された「アンドロイドは電気羊の夢を見るか Do Androids Dream of Electric Sheep?」は、フィリップ・K・ディックが、SF小説の形式を用いて人間と人造人間(アンドロイド)の関わりを描いた作品である。テクノロジーの進化が生み出した人造人間を「廃棄処理」することで生計をたてている主人公は、人造人間の「人間より人間らしい」側面を知って、人間と機械の関係や「本物とは何か」という問いに向き合うことを余儀なくされる。それはまた「ほんもの」を本物たらしめる「本当らしさ」とは何かをめぐる問いでもあった。

電気羊はあってた!(いやそういうゲームじゃねえから

この時、ディックが立てた命題は色褪せるどころか、人工知能の多様な進化と展開に揺れる近年、さらに切実なものとなっている。小説では、主人公にとって羊を飼うという夢が人間性の回復の象徴となっていた。人工知能が、人間が作り出した新たな人間だとしたら、彼らが夢見るのは果たして機械仕掛けの羊なのか、それとも彼らの願望の対象もまた人間と同じように本物の羊なのだろうか。

人工知能を用いた画像生成は、単純な機械的な操作でもなく、かつ人為的な行為でもないところが面白い、と語る片山は、これまでも「本物」という概念に対して人間が見せる執着への興味を制作の重要な要素としてきた。「偽物」と比べることでしか「本物」は確認しえないのか。写真は「現実の偽物」と言い得るのか。「写真の偽物」は「現実の偽物」でもあり得るのか。写真が映し出す「本物」とはなんなのか。

人工知能によって写真のリアリティが急速に失われつつある現代において、片山の新作は「本物」という存在をめぐる複雑で奥深い迷宮に鑑賞者を誘いこむのである。

このステートメントはそんなに長くないんだけど、ちゃんと「~と語る」と作家の言葉を引き出して載せてるのでそこは大変すばらしい
(お気持ちを忖度しないで、直接聞いてほしい

展示構成も、本→木→羊と誘導して、最後にチラシを置くあたり、楽しませようと考えられてる
(脳死でやったら入口にチラシおきそう・・・

という感じで個人的にめっちゃ楽しめたんだが、もう終わってるという

次は余裕をもっていきたいです(お気持ち)

という感じのピラミデビル

でした

今回まわったとこは以下
(ぺろたんは別記事なんでそっちみて

まだほかにもギャラリーあるが今回はスルーや休廊中

ちな、ピラミデビルの屋上からは最高の六本木ヒルズ撮れる説

そもそもピラミデビルがかっけえ説もある
下の写真の左下のやつとかなんだよ、BLAME!

東亜重工味のある構造物・・・


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