ばい~ん おじさん
「ばい~ん」です。
「アイーン」ではありません。念のため。
飛び乗った車内は、ガラーンとしていた。
年が明けたばかりの夜遅い時間だからか、
東京メトロの乗客はまばらに、ぽつん。ぽつん。
シートに深く沈めたボクの疲れた体には、真っ暗な窓外で鉄骨のレールと車輪が激しくぶつかり合う音がうるさかった。
だから、ボクは最初「その声」に気づかなかった。
「ばい~~~~~ん」
ああ、疲れた。今日こそ早く帰ろうと思ったのに。
「ばい~~~~~ん」
あそこで同僚に「シオツマさん」って呼び止められなければなあ…
「ばい~~~~~ん」
帰って風呂入ろ。
「ばい~~~~~ん」
ん?
「ばい~~~~~ん」
なんの音?
「ばい~~~~~ん」
電車の音?
「ばい~~~~~ん」
いや、違う。
「ばい~~~~~ん」
人の声だ。
周囲を見回すと…
つまらなそうな乗客たちがスマホに目を落としている。
隣を見ると、3人分ほど空間を空けて座るおじさんが目に入った。
え?このおじさん?
そんなわけ…
「ばい~~~~~ん」
ビンゴ。
かすかに口元のマスクが動いた。
気づかれないように目の端で探ると、白髪交じりのヒゲだらけの頬がのぞく。
くたびれた野球帽をかぶり、100メートルほど地面で引きずったのかと見紛うようなナイロンジャンパー。
左手に握っているのは、くしゃくしゃにした紙袋。これでもし、右手にワンカップ大関だったらコンプリートだ。
こういうおっちゃんいたよな。
昭和の街からタイムスリップしたかのようで、エモさの混じる親近感。
「ばい~~~~~ん」
他のお客さんは誰も反応しない。
気づいていないのか、見て見ぬふりしているのか。
注意深く観察すると、
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
おじさんは、親指と中指を巧みに鳴らしてから、謎の言葉「ばい~~~~~ん」と発声していた。
指パッチン?ばいん?
なんだ?一体、どういう意味なんだ?
馬の名前か?競馬の予想が外れた恨み節なのか?
なにかのまじないか?この呪文を唱え続けていないと、このおじさん、魔女にネズミにでもされちまうのか?
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
乗客たちは無反応。関わってはいけないかのように頑なな表情。
えっ?まさか、僕だけに見えている人?
なーんて、戯言を妄想していたボクは気づいてしまった。
そう、気づいてしまったのだ。
この行為が、極めて「規則正しい」ことを。
よし、計ってみよう。
1…2…3…4…5…6…7…8…9…10…
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
10秒か。もう一度。
1…2…3…4…5…6…7…8…9…10…
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
えっ?嘘!もう一度、
1…2…3…4…5…6…7…8…9…10…
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
おおおっ!ピッタリ10秒!!
数えてんの?
めちゃくちゃ正確じゃない!
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
しかもその響き、まるで荘厳な王室時計のように小気味いいこと。
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
この正確さ、ヤバすぎ。このおじさんもしかしてAI?
そこでボクは考えた。
もしかしたらこのおじさんは、
この世界の「時を司る神様」なのかもしれない。
このお方が時を正確に刻んでくれているうちは、世界中が秩序正しく正確に回るのだ。
そう思うと、そのお姿が崇高な輝きを放っているかのように見えてくる。
「ばい~~~~~ん」ああ、絶妙で美しいビブラート。きっとあの紙袋には、ふりかけたら人を幸せにする金の粉が入っているのだ。
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
ありがとう、おじさん。
あなたのおかげで、ボクたち世界中は平和に暮らせています。
パチッ。
「ばい~~~~~ん」
ほら、周りの乗客の皆さん、見て見ぬふりしていますね。
このお方が、時を刻んでくれているから、明日も明後日も平和にやって来るんですよ。何気ない幸せな毎日は、このお方が何年も、何千年も弛まなく紡いでくださっているんですよ。
ほら、感謝の気持ちを。ほら。
ボクが乗客たちに気をとられているうちに、
大変な事態が起こった。
しーーーーーーーーん。
あれ?
「ばいん」は?
10秒経ったのに…。
…11…12…13…14…15…
見ると、おじさんが居眠りしているではないか!
目を閉じ、ウトウト前後に揺れている。
無責任な乗客たちは心なしかホッとしている。
大変だ!
…16…17…18…19……20!
時の神様、もう20秒経ちました!!
起きてください!神様!
どうしよう、神様のカウントが止まったら、世界の時間が止まってしまう!宇宙が壊滅する「世界のオワリ」!ドラゲナイだ!
…21…22…23…
ああっ!しかも…しかも…
ボクの降りる駅に到着しそう!
緩やかに列車がホームに滑り込んでいく。
…24…25…
降りなきゃ…いや、でも…
どうするボク!?
立ち上がったが、どうしていいかわからない。
神様の代わりにボクが「ばい〜ん」するか?
…いや、ダメだ!神への冒涜だ!
…26…27…
どうする!
どうするボク!
もうすぐ30秒!
……28……29……
キキキキキキーッ…劈く甲高いブレーキ音。
停車した!
ああ、南無三…ええい!
ボクは思わず神様に近づき、大きな声で咳払いした!!
「ゴホン!ゴホン!」
同時にドアが開く。
「プシューッ、ガラッ!!」
すると…おじさん、
「はあああっっっ!!」
と跳ね起き、
慌てて、指を3回、
パチッ。パチッ。パチッ。
立て続けに、
「ばいん。ばいん。ばいん。」
なんと…!取り戻した!
30秒分、
えらい勢いで、一気に世界の時間を取り戻した。
ホームに降りたボクの未練を断ち切るようにドアが閉まり、
神様を乗せた地下鉄は、遠くへ走り去った。
ありがとう、時の神様。
世界の時間は、再び平和に流れ始めました。
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