恋とピアノと私 #12
(#11から続く)
夕暮れの音楽室。2人で静寂を打ち破る。
わずかに速いテンポ――それだけで曲調は確かに変化し、これまでのどこか牧歌的だった演奏に、厳しい夏の日差しが差し込んだような刺激が加わる。
速く。しかし決して急がず。気を抜けば簡単に坂を転げ落ちてしまう。前へ進みたい気持ちだけでは、心地よい調べは生まれない。適度に自制の効いた、後ろ向きに引っ張る力が必要なのだ。
彼女のサクソフォンは、相変わらずよく鳴っていた。厳しい指導に落ち込んだ姿をみじんも感じさせない、いつも通りの、彼女らしい明るく朗らかな音色が、部屋中に響く。
冒頭、第一のテーマをサクソフォンが奏する。軽快な主旋律は、飛び、跳ねまわる。もとはバイオリン用に作られた楽曲と聞いている。管楽器の演奏にはまったく不向きのはずだが、彼女の演奏は、テンポを上げてもさほど違和感がなかった。よく練習しているのが分かる。「私の演奏を聞いてほしい!」という思いが、音に乗って力強く伝わってくる。
僕はあえて抑制的な伴奏でサクソフォンを支えた。
アルペジオには心持ちテヌートをかけ、主旋律の軽快さと対比を作る。
対比! クラシックはいつだって対比の連続で、同じ旋律が繰り返されていても、同じように演奏してはならない。これは絶対のルール。いかに美しい対比を、絶え間なく構成し続けるか。それが「単調」からの脱却の第一歩である。
伴奏の変化に気付いているのかいないのか、彼女は大きな山なりのスラーを一息で描き切る。小柄なのに、その肺活量。自然なメロディーをやすやすと奏する彼女に、嫉妬心と対抗心を抱く。
わずかな間奏に引き続いて主旋律はピアノに移り、サクソフォンは伴奏に回る。
主旋律を引き継ぐ瞬間、彼女が視線をこちらに向ける。
一瞬、目が合う。
「好きなようにやっちゃって」
そう聞こえた気がする。言われずとも、はじめからそのつもりだった。
すっと音量をしぼる。それから一気にフォルテへ。と思えばまた小さく。音量をこまめに調節する。やりすぎだろうか。やりすぎるくらいでちょうどいいと言ったのは先生だ。少しくらいハメ外してみようじゃないか。まずそこから始めたらいい。
あえて彼女のほうを見ない。
ソリストを観察しすぎだったのだ、今まで。彼女の演奏に合わせよう、合わせたいという意識が、自分のピアノを小さな型に押し込めていた。
サクソフォンの音色をよく聞きながら、一方で聞きすぎないようにも注意する。自分の音と彼女の音。2人の音楽が近すぎても遠すぎても、合奏は成立しない。互いの距離感を保ちつつ、ときに意識して近付き、意識して遠ざかる。ゆらゆらと揺れる不定の狭間から、真のハーモニーは生まれる。
ソリストと伴奏者は、主人と召使いではない。
主役と脇役ではあるかもしれないが、そこには主従関係も、優劣もない。ただ対等の2人の演奏家がいるだけだ。2人でしか創り得ない音楽があるから、こうして時と空間を共有している。
合奏の本質がそこにある。
最後の数小節、小難しいリタルダンドがかつてなくタイミングを合わせ、絶妙のコンビネーションが証明された瞬間、僕はそんな簡単なことに今さらながら気付いて、背すじにしびれるような快感を覚えた。
そうして終わりの音が部屋中に余韻を残す中、驚いたように目を見開いた彼女と再び目が合うと、一緒になって晴れやかな笑顔を浮かべたのだった。
*
下校のチャイムがタイムリミットを知らせるまで、僕らは、僕らがそれぞれの力と思いを尽くして紡いだ音楽を、秋の乾いた風にやさしく載せて、何度も空に飛ばした。
その都度テンポを動かし、ニュアンスを変え、解釈を議論した。最高の合奏などというものは存在しない。ふんわりとした概念のようなもので、目には見えないし、手も触れられない。しかし、その目指すべき方向すら分からなくても、僕らは一歩一歩進むしかない。そうすると決めたのだから。
いつの間にか西日は、はるか向こう、山と空の境界に姿を隠し、かすかにけぶる淡い朱色を夕空の雲に残して、群青の影に沈んだ山波をくっきりと際立たせていた。光るようにつながった滑らかな稜線に目を細める。
「なにか1曲弾いてよ」
こちらに背を向け、自身の楽器を片付けていた彼女が、振り向きざまにそんなことを言い出した。もう終わりの時間だっていうのに、ずいぶんとのんびりとした口調でそう言いながら、ゆっくりと振り返る。口の端に、穏やかな笑みをたたえて。
彼女も、ちょっとは吹っ切れたのだろうか。
彼女の様子にうれしさを感じながら、一度は閉めたピアノの蓋を開き直し、「いいよ」と答える。
「何がいい」
「なんでもいいよ。なんでも……好きなやつ」
そういうのが一番困るんですけどと、うそぶきながら、心の中では全力で腕まくりをしている。
なにか弾いてよ――
そのお願いが、実のところあまり得意ではなかった。
真剣に弾いても遊びでも、あるいはどんな曲を選んで弾いてみせても、結局、自分の大事なもの、やってきたことを人前にさらけ出す作業に違いない。何を弾こう、どう弾こう、と必要以上に固くなってしまって、思いのままに指を動かすことは難しくなる。それが苦手だった。
しかし彼女の「なにか弾いて」には、なぜか不快感を覚えなかった。
むしろ不思議な高揚感があった。無性に心が浮き立った。選ぶ楽しみがあった。
開けた野原に無数のクローバー。その中から、彼女に贈るための輝く四つ葉を探し当てるように、この場にふさわしい、すてきな1曲を選びたいと切に願った。
鍵盤に両手を触れる。レパートリーから曲を決める。つい先ほどまであれほど熱を帯びていたピアノが、今はもう冷たさをまとって、それでかえって、10本の指は吸い付くように鍵盤に載った。
――さりげなく、前触れもなく、ピアニッシモを奏する。
テンポを気持ちゆるめて演奏する。緊張の糸を解きほぐすように。先ほどまでの合奏とは違って、ゆったりと、軽やかに、控えめに音をつなげる。
彼女を視界の端に認める。意表をつかれたというその表情に、意地悪な満足感を覚える。
だんだんと曲の持つ世界を展開していく。
足元には静かな湖面を広げ、天井には満点の星をまく。そうしてゆっくりと、慎重に探検を始めるのだ。光の筋とほの暗さがモザイクをなす水の底へ、深く潜る。
半ば意識を失ってグリッサンドをしていたら、ふっと手元に影が落ちて、それで僕は、しだいに夕闇に支配されつつある音楽室に帰ってくる。
気付けば彼女が横に立っていた。鍵盤をのぞき込むように前のめりで。彼女の肩に垂れた黒髪から、ふわりと甘い香りが立ちのぼって鼻をくすぐった。
「ここで見てていい?」
僕がうなずくと、彼女は軽く腕を組み、リズムを取り始めた。
演奏している手を見られながら弾くのは、どうにも妙な気分になる。恥ずかしいような、居心地が悪いような。急に肩に力が入る。つまらないミスタッチが増える。かろうじて暗譜はしているものの、まだ十分には弾き込めていない曲だった。人に披露するレベルではない。
それでも鍵盤を駆けるこの指は止めない。少しの失敗は、失敗じゃない。
どうか最後まで見てほしい。聞いてほしいと思った。
すぐ耳の横で、彼女の体温と息遣いを感じ、僕はそれまでとは違った特別な緊張感に包まれながらピアノを弾く。
「なんて曲?」
「水の戯れ」
深淵なる音楽の泉に、僕らはそっと、手をひたし続ける。
(続く)