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植松聖が獄中にて語ってたそうな死への恐怖についてが、一般人の価値観ではない気がした。

「存在が消える事への恐怖」

植松聖は取材にそう答えたそうである。(※情報元がどこか忘れてしまい現在捜索中…)

殆ど人は死の恐怖とは通常、痛みへの恐怖が思い付く。植松サトシは痛みへの想像力がないか、鈍感だったということか?

座間市連続殺人事件の犯人も、もしかしたら、そういった死生観? サイコパス全般が死への恐怖を知っていたとしても、あくまでそれは存在性が消える事等への喪失感への恐怖であって、痛みへの恐怖ではない?

それとも痛みへの恐怖を判った上で、他者に対してのみ鈍感になれるのか?

追記5/29
獄中にまで面会にくるインタビューについては、犯人視点としても、事前に何を話そうか考える。カッコいい事を言いたい欲が働いて「存在が消える事への恐怖」なんて哲学的な事を言ったのかもしれない。
そのレベルの哲学的な視点は中二病でも思い付けるし、犯人視点はとことん幼稚なのかもしれない。サイコパス=幼稚
園児=サイコパス
のようなもの