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俺は俺の人生を肯定する

俺ももう31だ。若者のふりをしてられない。順調に年を取っている。これはまずい。何かしなくては、と思う。直後に「何もできないよ......」と落胆する。もう少し自分にスキルがあればなんとかなるのに、と思う。直後に「勉強なんてしてこなかったじゃん......」と落胆する。こういう時は自分ばかりではなく外も見るべきだと言い聞かせ、外を見る。みんなハッピーそうに見える。落胆する。

諸事情あって一ヶ月間くらい病みまくっている。理由を模索したところ、どうやら自分自身と向き合いまくってしまっているらしい。嫌気が差す。自分が大嫌いになって死にたくなる。多分、幸せになるのは簡単だ。人と関わらないようにすればいいのだ。世には内向タイプと外向タイプがいて、前者は一人でいると充電され、後者は人と関わり合うことで充電されるという話を聞いた。まず間違いなく、問答無用で私は前者である。家にこもっていれば最高級の幸せをいとも容易く手に入れられるのだ。

しかし、なぜだろうか。半年に一回くらい爆裂に自分と向き合いたくなるのだ。そして、光の速さで心が死ぬ。私はアンハッピーだ。私ももう31だ。年齢なんて気にしたくないとは思いつつも、そろそろおじさんと呼ばれてもいい頃合いである。やばい、何も人生経験を積んだ気がしないぞという妙な焦りによって、人とつながっていこうとする。そして、消耗する。

わかっている。「つながろう」なんて考えたりするからいけないのだ。当たり前だろう。私は内向型だ。やばそうという理由で世界とつながりにいったところでまず間違いなく精神を病む。会いたい人に会いにいくのであればいい。それは楽しいから。しかし、行動動機がやばそうってなんだ。自分のためにもほどがあるだろう。よく考えてみたまえ、今までだって無理して続いてきたことがあるかいと。

ここで彼女のことを想う。ああ、こんなにずっと長い間一緒にいられるのは心からリラックスして同じ時を過ごせるからだなあと思った。いきなり惚気けるが、正直、彼女さえいればいい。俺はもう出会ってしまったのだ。彼女に出会った時点で人生の目的は遂行したのだ。言うまでもなく家族も友人も大事だ。が、わかる人にはわかると思う。どうなろうとこの人とさえいられれば自分の人生問題なしやなと。それと同時に恐怖も覚える。彼女がいなくなってしまったらどうするのだと。

一人でいれば充電はされるが、それは心が休まるというくらいで一緒にいて楽しいという感情は一人では感じられない。内向型人間にとって、この人になら何だって話せるという人は激レアだ。しかも蜜の味を知ってしまった後だ。失った後で、激烈な寂しさに襲われる自分を想像してみる。怖い。人を愛するということは失う悲しみを覚悟するということだ。愛とはなんて恐ろしいのだ。

将来のことなんて極力考えないようにしてきた。考えたところでどうにもならないという絶対的な諦めがあるのだが、そうそれこそ半年に一回は爆裂に自分と向き合ってしまうのだった。そして病むのだ。自分でも苦笑いするレベルで何度も同じ失敗を繰り返す。周りを見渡す。ハッピーそうに見える。いやさすがにそれはないよなと思い直す。ですよね、さすがに皆さんハッピーだけじゃないですよね。一人でいる時とか絶妙に病んでますよね。さすがに俺一人だけ絶望的に病んでいる訳ではないですよね。―などと被告は意味不明な供述を繰り返しており、私はもう自分の心が手に負えません。

一人で向き合う時間が長くなると深刻になっていく。飯の味がわからなくなる。飯がおいしいと思えなくなったら、そこで試合終了にしましょうよ。自分のことを救いたくて救いたくて震える。視野狭窄だ。人生において成功体験がないからなのか、自分の生きる道は一本道だと思い込む。名前が正道だからだろうか。どこかに正しい道があると思い込んでいるようだ。世界は広いはず。そう自分に言い聞かせる。

とはいえ人生経験がまったくない訳ではない。社会不適合者として曲がりなりにも生きてきた。グラスに入った水が半分ある。半分もあると思うか、半分しかないと思うか。有名な喩えだが、ないと思えばないし、あると思えばあるのだ。冷静になって考えてみよう。自分が内向型であることは理解している。彼女が好きであるということもわかっている。家や食もあり、生活に困ってはいない。贅沢はできないが、好きなときに好きなものを買うくらいの時間と金はある。

肉体は健康だ。精神のほうはたまには病むが、意識次第で切り抜けられる。嫌になったらやめればいいのだ。そしたら大回復する。話し相手もいる。友人はゼロではない。都市部に住んでいるので車がなくていいから、かかる固定費も限られている。通信費も安くなってきた。安定した職には就いていないが、その分、気楽だ。人間関係による悩みもない。長い引きこもり歴によって退屈を回避するスキルはバカ高い。

なんだこれは。かなり幸せそうじゃないか。なんなんだお前。なんで病んでんだ。怒りが沸いてきたぞ。なんでこれだけ恵まれているのに毎日のようにうんざりした顔してんだ......でも、病むんですよね。フシギ。暇なのかなとかとも思うが、こうして文章を書いたり、詩を書いたりして遊んでいるとメキメキとは言わないまでも、やらないよりは成長するし、やることによって生きている実感もする。昔から一人で黙々とやる作業が好きだ。金をかけないでやり甲斐も感じられる。

なぜ、アンハッピーなのだ。育ってきた環境を想像する。一昨日、悪夢を見た。忘れ物をしてしまい、極度に怯えながら父親にそのことを伝えたら「お前がいい子じゃないから。考えが悪いんだよ」と叱責をされた。いや、あのニュアンスは叱責ではなかった。人格否定だった。そして、この絶妙な言い回し。何が言いたいのか不明瞭なのに心へのダメージはどっしりくる。まさに父だった。なくなってから15年経ったというのに未だに夢に表れては俺を虐めてくる。

目覚める。もう父はいない。安堵する。巷では親のことを悪く言ってやるなとよく言われる。実際に言われたこともある。まったくの正論である。俺も執拗に父のことを悪くは言わないようにしている。が、お前に何がわかるというのだろう。不満を言うのはダサいかもしれない。でも、一体、お前に何がわかるのだ。怒りのような悲しみのような感情が爆発しそうになる。

ずっとわかっているのだ。俺の敵は俺だ。誰より、何より、俺をもっとも虐めているのは俺なのだ。人から言われたらありえないようなことも自分にだったら平気で言ってしまうのだ。泣きたくなる。悲しい。俺は、誰よりも自分を酷く虐めているのだ。涙が出てくる。誰からも理解されないのでない、誰よりも自分のことを理解していないのは自分なのだ。俺も一人の人間だ。一人の人間に対して色々平気でディスりまくって申し訳ない。

自分を好きになりたい。死んでしまいたいなんて言いたくない。思いたくもない。死にたくない。生きる理由はたくさんある。やりたいことだってまだまだあるはずだ。人が嫌いなんじゃない、自分が嫌いだ。自分が嫌いだから人も嫌いになる。大人になりたかった。心は子供のままだ。愛されないと嘆くのは終わりにしたい。でも、きっとそれもできないのだろう。今後もこの体と心で生きていくのだ。死ぬまでこのままかもしれない。でも、死ぬまでは生きていくのだ。生きたいという気持ちと死にたいという気持ちは似ている。体温がある限り、命を燃やしていこう。まだまだ不完全燃焼だぜ。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。