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君が見つめていたもの

肌と肌、服と服がこすれ合うたび、僕らの時間もすり減っていく。カーテンの隙間に街灯が白く光っている。二階の部屋にしたのは間違いだったのかもしれない。天井の模様を見つめていると、君が胸の中でゴニョゴニョと寝言を言う。夢を見ているようだ。君には忘れたいことがあって、僕は顔も知らないそいつのことを許せないでいる。

なぜ、君は傷つきにいく。ずっと、僕のそばにいればいいのに。僕だったら、僕だったら。すべてを守る。君の頭を撫でる。ねえ、僕は結婚したいくらいなんだよ。この地球は回り続けるのに、僕らの関係性に夜明けが来ないのはいったいどうして。

長い睫毛。君の寝顔が見られるのが、唯一、この部屋にしてよかったこと。細い腕。体にはさわれても、心にはさわれない。ねえ、誰の夢を見ているの。強く抱き締めるから、起こさないように抱き締めるから、お願い、僕の夢を見てよ。


気付いたら眠っていたようだ。隣に君がいない。カーテンの隙間に日が射している。時計に目をやる。もうとっくに朝だ。布団から出て、リビングのほうへと続くドアを開ける。左手奥にある台所の前に君が立っていて、フライパンで何かを炒めている。急に近付くと驚くだろうから、あえて少し音を立ててドアを閉める。

君は振り向いて、僕におはようと微笑む。ダイニングチェアに腰掛ける。細い背中。体重は僕よりずっと軽い。ぼおっとしていると、「熱いから気を付けて」と僕の前にマグカップが置かれる。紅茶だ。香りがいい。一口飲む。アールグレイだろう。続けて、ソーセージとスクランブルエッグの載った皿も並べられる。最後にトーストが焼ける。

エプロンを脱いだ君が僕の対面に座る。朝早いのにありがとうと伝えると、一人分も二人分もほとんど手間は変わらないよと言う。いただきますと言って食べ始める。髪が少し濡れているように見えて、シャワーを浴びたのと聞くとうんと頷く。白いタートルネック。何を着ても似合うなと思う。

天気がいいねと他愛もない話をしながら、同じタイミングで食べ終わる。一緒にいて心地がいいのは、きっと、生きるスピードが似ているからだろう。この流れに合わせて、僕らの関係性にも進展があったらいいのになと思う。食器を片付けると言うと、君はありがとうと言って洗面台のほうへと消えていく。

すぐにドライヤーの音がしてきて、僕を起こさないために配慮してくれたのだなと思った。水切り用ラックに皿を並べ、手を拭き、まだ湯気の立つマグカップを持ってリビングのソファに移動する。暖房が効いている。昨夜の布団の中を思い出す。寒くて二人ひっついていた。暖かいと、距離が離れていってしまうようで切なくなる。

昨日の夜、君は連絡もなく突然うちを訪れてきた。事情を聞こうと思ったけれど、君の目が少し腫れていて詮索するのはやめようと思った。君が傷ついた理由なんて知りたくない。知ってしまったら、尚更、腹が立つだろうから。君が誰の悪口も言わないように、僕だってそうする必要がある。

「いつもぼおっとしているね」といつの間にか部屋に戻ってきた君がからかう。天才にはこういうところがあるんだよと冗談を言うと君は笑う。大きな瞳。髪は丁寧にブラッシングされていて、目が合うたびに微笑んでくれる。何気ない仕草が愛しい。でも、その瞳に映るのは僕ではない誰かの時があることを君は気付いていない。

それじゃそろそろいくねと君は右腕にかけていたベージュのコートを羽織る。いつもささやくように話すのは、まるでいけないことをしているみたい。化粧をしていても、僕にはいつだって素顔に見えるよ。忘れたいことを忘れたフリをして君は出ていく。玄関先まで見送り、黒のパンプスを履いた君はまたねと言って僕の唇にキスをする。

ゆっくりと閉まる扉。すぐにドアスコープを覗くと、僕が見るのを知っていたかのように手を振る。そして、冷たい外気の中へと消えていった君はどうしてそんなに手を振る。何をするにもやさしさを忘れない君。そのやさしさがきっと君自身を傷つけている。

部屋に戻り、窓を開け放す。冷たい風が入ってくる。ベランダに出て、晴れた空を見上げる。もうすぐクリスマス。ほしいのは君の心。君にとっては寒さしのぎの関係かもしれないけれど、僕にとっては無限の可能性を秘めた夢。明くる日も明くる日も恋に焦がれたまま。

体を暖め合うだけなら、誰だってよかった。でも、僕はこの街にいる。そして、君は僕の部屋を出入りする。運命の赤い糸が千切れずに残っているなら、きっと、この空を横断している。離れている間もこの恋を信じられるなら、僕は君といる時を信じ抜く。

しばらく鍵はかけなかった。君が忘れ物を取りに戻ってくる気がして。とっくに冷めた紅茶。強く吹き続けるエアコンの風。僕をじっと見上げる君を思っている。君の見つめている先に、君にとっての幸せが転がっていたらいい。

君に張り付いて取れなくなってしまった、この氷のような気持ちが溶けるまで。僕はこの寒い寒い街の片隅で、君が振り向いて、いつもの笑顔を見せてくれるのを待っている。噛まれた唇より、ずっとやわらかい月にまとわれる日まで。僕はただ、手をつないで白い息を重ねる日を待っている。


窓の向こう、カーテン越しに街灯がチカチカしている。目が痛い。テーブルの上にはしなびたチキンと食べかけのショートケーキ。クリスマス・イブの夜。子供ができたのと君に告げられて、僕は迷わず一緒に育てたいと言った。誰の子かわからなくたっていい。でも、君はもうこの関係性は終わりにしようと小声で言った。

もういくねと言う君に僕は送っていくよ遅いからと黒のスニーカーを履いた。君は白のスニーカー。忘れるところだったと渡された合鍵でバタンと閉まる扉に鍵をかけた。静かな道を二人で手をつないで歩いて、白い息が重なって宙を舞う。

「前に私は何に似ていると思うと僕に聞いたことがあったよね。あの時は言葉を見つけられなかったけれど、今ならば答えられるよ。君は波に見える。君がどんなに泣きじゃくったとしても、水がなくなることはないし、永遠に誰かを潤わせ続けられる」

「そして、僕をとらえて離さない。もう僕は君の一部になってしまった。いつからだろうね。いつからか、くっついて離れなくなっちゃった。でも、安心して。僕は大丈夫。君が今流しているその涙が僕で、君のところに帰る予定はない」

僕が今流しているこの涙が君。君の流す涙を見ていたら、初めて僕のために流された涙だと感じられた。初めて心にさわれたと思った時がさよならの時。肩を震わせる君を抱き寄せて、「やっぱり君は花かも」と言ったら、君は泣きながらくすっと笑った。

僕らはお互いの幸せを願っている。絡まる指先がほどけて、君はさよならとささやいて僕の胸に頭をつける。そっと抱き締め合って、君との別れを惜しむ。

「今までありがとう元気でね」。潤んだ瞳でそう言うと振り返って、地下鉄の入り口を駆け下りていく。階段の途中、立ち止まった君は振り向いて手を振る。やっぱり君は万華鏡かもしれない。いつもスコープを覗いているように君を見ていた気がする。

月明かりが地面を濡らす。ぽつりぽつりと星が瞬いている。君が見つめているものの正体がわかった。光だ。遠く遠くさわることのできない光。見つめること以外許されない光。君はきっと知っていたんだね。いずれ夜明けが来ることを。

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。