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こんな昔の話が、一体誰のためになるのかわかりませんがw、自分の広報活動を振り返る棚卸し作業の一環として、約30年ほど前に、私が初めて広報に出会った当時のことを思い出しながら徒然なるままに綴ってみたいと思います。

女性だけコース別採用、総合職採用があった時代

大学卒業後、私がその日系の大手精密機器メーカーに就職したのは1992年のことでした。当時は女性だけ、総合職と一般職というコース別採用がどの会社にもあり、総合職は男性と同じように残業も転勤も異動もあるよ、という条件のもと、狭き門が開かれている状態でした。男女雇用均等法が施行されて数年が経過しており、どの会社もコース別採用を設けることで、ほらね、うちの会社はちゃんと女性も活用しているよ、というポーズを取っていた時代なのだと思います。今となっては、男女問わず転勤も異動も普通のことですが、その当時「女性=寿退社」がまだまだ当たり前の時代でしたので、男性と同じような条件で働く、というのはいろいろな意味でハードルが高い状況でした。その中で、全部で200名を超える同期入社の中、私を含む10名の総合職採用の女性社員が誕生しました。どの方も個性豊かな優秀な女性たちでした。ちなみに、一般採用の短期大学卒の女性は約50名、残り大半が男性社員でした。

学生気分が抜けないまま、新入社員研修、部署ごとの研修など3ヶ月ほどみっちりと研修を受けた後、部署への配属となりました。私は広報宣伝部・広報室の配属でした。同時、部全体で50名を超える大所帯で、広報室だけでも10名ほどの社員がおり、社外広報チームと社内広報チームに別れて仕事をしておりました。

配属先は広報宣伝部・広報室

私は社外広報チームに配属となり、主にコンパクトカメラを担当することとなりました。デジタルカメラが生まれる数年前です。フィルムを装填してプリントするというカメラが主流の時代でした。プレスリリースをどう書くか、OJTを通じて年間60本ほどのプレスリリースを作成しながら先輩社員や上司に指導を受けながら学びました。広報室に2台しかないワープロをみんなで使い回ししながら原稿作成していました。今でこそ、インターネットを使ったメールによるプレスリリース配信が普通の世の中ですが、当時はワープロで作成したプレスリリースを、印刷会社で印刷し、ホチキスで止めて、写真スタジオで撮影したニコパチと言われるキャビネ判あるいは小型版の紙焼き(プリントアウトした商品写真や商品とモデルさんの写真)をセットにして封筒にせっせと封入します。その数は300くらいだったかな。そして、所属していた機械記者クラブに発表申し込みを48時間前に行い(幹事会社は2ヶ月毎に変わります。幹事会社に電話して発表の申込みを行い、承諾を受ける必要がありました)、資料の投げ込み(持ち込んで媒体各社のポストに封書を投げ込む)とクラブ内にいらっしゃる記者さんに説明をさせていただき、近隣媒体を回って資料のお届けと共にご説明をさせていただく、という一連の流れがありました。大手町から始まり、九段下、五反田を回って会社に戻るのが常でした。クラブの受付の女性に、Fax代として毎回10円を支払うことも絶対に忘れては行けない作業の一つでした。お忙しい中、仕事の手を休めて話を聞いてくださる記者さんもいらっしゃれば、忙しいと言ってまったく相手にしてくださらない記者さんもいらっしゃいます。そのあたりの空気を読むチカラと、手短に用件を話すというチカラはその時養われたように思います。発表日には記者クラブに所属していない媒体や記者さんにFax同報通信や郵送でお送りすることもします。それを多いときで週に2回くらい行っておりました。結構な激務です。平均すると月に4−5回はやっていたでしょうか。また、機械記者クラブへの配信とは別に、カメラ専門誌系が月1回集まるカメラ記者クラブという場もあり、アサヒカメラ、日本カメラ、山と渓谷社、CAPAなど、今はもうなくなってしまった媒体もありますが、そちらに赴いての発表と説明も行いました。カメラマンさんとの付き合いも重要な職務の一つでした。また、海外の現地法人に英文化したプレスリリースを印刷して送ってもいました。今では考えられないですね。

すべてが新しく、すべてが新鮮な学びの日々

プレスリリースをすると、直後に記者さんから問い合わせが確実にあります。配信した日はメジャーな媒体から問い合わせが来るまで待機しておりますので、すぐに帰宅できません。プレスリリースに書いてあることとは別に、必ず想定問答集を準備し、どのような質問があっても答えられるようにしておくのも広報の重要な仕事です。発表前に、担当していない他の広報部員にも朝の会で情報を共有し、理解を深めておいてもらいます。誰がいつ電話をとっても答えられるようにしておく必要があります。また、答えられない質問が来たときは、いい加減な答えをすることはNGです。必ず、お調べしてお答えします、というスタンスが基本で、曖昧で適当な回答は許されません。質問を受けてから2時間以内に回答する、というのが当時の広報室のルールでした。実際には、開発に問い合わせないと答えられない内容もあったりして、2時間以内に回答できないケースもありましたが、その場合でも、進捗状況を逐一媒体さんに伝えることで、問い合わせたあの件どうなってるんだ?という不安を抱かせないよう気をつけておりました。また、翌日は掲載になった記事をモニターし、すべてクリッピングし、糊で台紙に貼って、コピーをしたものを全社各部に配って歩いたり・・・という作業があるため、いつもより早く出社します。光磁気ディスクに記録のために1枚1枚焼き込んだりという地味な作業もありました。光磁気ディスク・・・一体どこに行ってしまったんでしょうね?w

今も実践している大事な教え

当時の上司から学んだことは、今も私の広報活動をする上での大事な指針となっています。それは「絶対に嘘はつかないこと」です。「わからないことは、わかりませんと正直に言え、知ったかぶりするな」と口酸っぱく言われておりました。30年経った今も、「申し訳ありません、それについてはただ今答えを持ち合わせておりませんので、お調べしてお答えさせていただいてもよろしいですか?」と言うことができます。知らないことは恥ずかしいことではありません。知らないのに適当に答えて、結果として記者さんにご迷惑をお掛けすることのほうが何十倍も罪が重いです。この会社で、4年間みっちり広報活動の基本、広報のいろは、学べたことは本当に幸運なことでした。

広報以外のさまざまなチャレンジ

広報活動以外にも若かった私に、会社はさまざまなチャレンジを与えてくれました。例えば、宣伝の担当社員と一緒に戦略を練って、大掛かりなメディアキャラバンを行ったこともありますし、女性向けの一眼レフカメラの発売を記念して、ハイファッションブランドを扱う女性誌とタイアップで女性のための写真撮影講座を開催させてもらったりもしました。お恥ずかしながら自分がテレビ番組に広報担当として出演させていただいたこともあります。また、会社が周年イベントを記念して会社案内を刷新する際に、プロジェクトリーダーに抜擢され、世界各地を取材と撮影のために飛び回り、素晴らしい会社案内を制作する現場に立ち会わせていただいたこともあります。カメラメーカーが一同に介して交流を行うカメラ5社会、カメラ7社会なんていうのもあり、そちらに参加させていただき、会社を超えた友情を育ませていただいたり、時には女性広報の会、なんていうのに参加させていただいておりました(あまり好きではありませんでしたがw)。

会社を卒業し、海外留学で広報のプロの道を目指す

4年間、楽しく過ごしてきた広報室でしたが、総合職として入社したからには避けられない「異動」という局面にぶつかりました。3−4年でジョブローテーションというのが当時のルールでした。次は営業に行くか?人事に行くか?総務に行くか?などという選択を迫られ、私としては広報のスペシャリストになりたいという希望を持っていましたが、それは今の会社の人事システムでは不可能と言われてしまったのです。もともと海外留学したいという夢を持っており、その夢をいつか実現させたかったのと、実際、海外メディアからの問い合わせに思うように対応できないもどかしさが常々ありました。また、今でこそ、結婚や出産をしても仕事を継続することが当たり前の世の中になりましたが、当時は結婚する相手や出産により、女性が仕事を継続することが極めて不透明な時代でした。それで、若いうちに思い切ってやりたいことをやるべき、と素晴らしい上司や先輩に囲まれた素敵な職場にピリオドを打ったのは、海外留学で広報のスペシャリストへの道を追求するという決断をした、私でした。

長くなりましたので、次回に続きます。

#広報 #海外留学 #PR 

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