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「やりがい投資」と「やりがい搾取」のちがい

いま、いろんな場所で英語を教える仕事をしている。

そのなかで、業務時間外に資料をつくったり、本屋で情報収集をすることもある。

まえの会社にいたころは、そういう行動を避けていた。いちおうIT企業にいたので、それに関連した勉強を家でたくさんやったこともある。

でも、当時は5分のサービス残業すら拒否した。たとえ5分でも10分でも、業務時間外に仕事をするときにはしっかりと残業代を請求していた。

今はむしろ、給料が発生しないときに仕事にまつわる作業や研究をしていることがある。

ただ、それは私にとってすごく楽しい。もともと英語が趣味みたいなものだったからだ。

無償で仕事させたり、努力させたりすることは「やりがい搾取」と呼ばれる。
このブログで何度も書いたが、もともとは漫画のセリフだ。その漫画のテレビドラマ版と一緒に、その造語も有名になった。

まえの会社では、なぜあんなに余分な努力を嫌っていたのだろう。

いま考えると、それはきっと「この努力が自分にとってプラスになる見込みがない」と感じていたからだ。

反対に、「この技術を身につけると、将来役に立つ」と信じたことは、休みの日でも努力した。

そして業務時間外に勉強して、TOEICを受験したり、Pythonを読み書きしてみたり、ほかにも多くの勉強や研究をした。

ただ、それらの努力は結果としてプラスにならなかった。

当時の私が求めていた「プラス」とは、給料が増えること、つまりお金だった。

いまは、授業時間と別の時間になんらかの作業をしても、それによって給料が増えることはない。

有名な話だが、教員は基本的に残業時間が給料に計上されないのだ。


ただ、私はいま、むしろ進んで業務時間外に努力している。

その理由は、自分自身の教師としての技術を上げたいからだ。その技術とは、かならずしも高い学力を得るコツのことではない。

美容師と似ているかもしれない。別の店にも転職できるし、なんなら独立もできる、そういう力を身につけたいということだ。

いわゆる「手に職をつける」という感覚だろうか。私はこの言い回しをいまいち理解していないのだけれど。

余分な努力によってリターンを見込める場合、それはやりがいの搾取ではなくやりがいの投資だと私は思う。

反対に、「いったい何のために努力しているのかわからない」という苦しみを抱えていると、仕事の内容がかんたんであっても、すごく辛いもののように感じる。