明治人に見るリーダーシップ論 Vol.3 (3/3)~凡人が見せた非凡な能力、アジリティについて
1.憲法制定と近代国家設立に至るまでの伊藤の課題設定と課題推進
維新明治政府の闘いの多くは、元政府関係者であった人物との対立関係の中において見ることができます。しかし、憲法制定前のこの時期には、新たな第三勢力との対立関係が生じます。すなわち、政府と世論との対立です。
1874年(明治7年)頃から、独断的な政治を行っていたとされる専制政治に対する批判が高まり、国民による参政権、国会の開設、自由の権利を求める声が大きくなります。中には、政府関係者が煌びやかな生活をしていることから、我々にも贅沢な生活をさせろ、と運動の趣旨を勘違いした人も当時はいたようですが、いずれにしろ、主権在民、議会開設を叫ぶこうした大きな世論運動のことを、自由民権運動と言います。この自由民権運動の流れを受けたこともあって、政府の中では国民議会の創設が重要な論点になっていきます。
1881年、大隈重信の罷免につながる北海道開拓官有物払い下げ事件が起こりました。この件で、猛烈に世論から言論攻撃を受けた政府は、自由民権運動を鎮静化するためにも、天皇の勅許の下、8年後に国会を開設することを国民に約束しています。これは国会開設の勅諭といわれています。このように国会開設が急務になる中で、ますます重要になってくるのは、国の運営を決めるルールとなる憲法の制定です。
伊藤は、天皇からの命を受け、1882年(明治15年)3月14日より、憲法制定に向けてドイツへ視察に行っています。一般的には、ここで伊藤が明治憲法の大構想を練ったと言われているそうですが、しかしながら『明治憲法制定史話』によると、「伊藤が憲法構想を練ったかのようにいうが、それは誤りだろう。(中略)伊藤は、シュタイン、グナイストの碩学と会談して、すでに岩倉の許しでできていた立憲主義的綱領の思想の確認を受けて帰ってきた」としています。つまり、伊藤は、独自の構想を行ったわけではなく、ある程度、設計をしていた妥当解の後押しをもらいにドイツ視察を行ったようにも見られます。しかしながら伊藤のこのドイツ視察では、情報収集に熱が入っています。
5月にベルリンに到着した伊藤は、ドイツ帝国の鉄血宰相といわれたビスマルクに会った後に、憲法の有識者に次々と会っています。伊藤は、有名な国法学者のグナイスト、モッセから講義を受け、さらには、公法学者であるシュタインからも学ぶため、オーストリアのウィーンにまでも赴きます。このシュタインから学んだ憲法思想は伊藤にとても意味あるものだったようで、司馬遼太郎氏によると、伊藤が綴った手紙の中で、シュタインの話から得た自身の見解について色濃く述べられているようです。
「英仏独は、いずれも議政体(立憲政体)である。(だが)精神はそれぞれ異なっている。英国では、多数派の政党の首領が首相となって政治を取りしきる。フランスの場合は、国会が政府の上で、政府はいわば国会の僕(しもべ)である。ドイツはこれとは異なり、政府は国会の衆議を重んじつつも独立で行為をする権利がある」としています。
つまり、イギリスやフランスとは異なり、ドイツの場合には、政府は国会の議決を経ずに、政治行為を行うことができることを意味し、政治の執行機関である政府が議会を超越した大いなる優位性を認められている、ということを示しています(そして、この制度上の欠陥とも言うべき点が、後の統帥権干犯問題を起こし、悲惨な戦争を招くきっかけとなったと言われますが)。伊藤は、この話を聞き、大きなインサイト(洞察)を得たのでしょう。プロイセン憲法に確信を抱いたと思われます。司馬氏は、このシュタインの考えは、後の大日本帝国憲法に強く反映されているはず、としています。
翌年の1883年(明治16年)8月4日に、伊藤は帰国をします。立憲君主制の必要性を確信していた伊藤は、天皇から憲法制定と、議会開設の命を賜ります。1884年(明治17年)の春頃から、憲法起草に向けた会議では、伊藤博文をはじめ、当時政府随一の知能と言われた井上毅、伊東巳代治、金子賢太郎などの自分よりも年齢の若い秘書官たちを集め、部屋にこもって喧々諤々と憲法の議論を行っています。
ここに興味深いエピソードがあります。羽生道英の『伊藤博文』によると(以降、意訳を含む)、憲法草案の議論で一番の年長者という立場であったことから、「長官も秘書官という立場もなく、自由に討論をしよう」と呼びかけます。しかし、いざ議論を始めると、自分の見解が思った以上に通らないことに伊藤は、徐々に苛立ち始めたようで、「若造どもに、憲法の何がわかる」といきり始めたそうです。すると、頭脳明晰な井上毅が、「若造とは何事でしょうか。ご自分で自由闊達に意見を出し合おうとおっしゃっていたではありませんか」と述べると、「そうでした、お許しください」と3人に対して陳謝をしています。感情的になりながらも立ち直りが早く、素直でどこか憎めない伊藤博文の様子が描かれています。
このような経緯を経て、ついに1888年の2月11日、大日本帝国憲法が制定されました。この憲法では、天皇の権限をはじめ、主権、統治権、統帥権ならびに臣民権利義務、そして帝国議会の在り方が規定されています。すなわち、意思決定の決め方が規定された立憲国家となったのでした。そして、翌年1890年には、約束通り、第一回帝国議会が実現します。
さて、ここまでは近代国家の建設に至る経緯を見てきました。しかし、その目的である不平等条約の撤廃が実現できたとされたのは、1911年(明治44年)でした。幕末の不平等条約締結後、およそ50数年が経過し、さらに憲法の制定からは、20数年以上が経過しています。これだけの膨大な時間がかかったことを考えると、不平等条約の改正は、明治日本にとって、まさに悲願だったと言えるのかもしれません。
しかしながら、並々ならぬ想いで近代国家の建設を推し進めた伊藤は、この悲願の成就を見ることなく、2年前の1909年に暗殺されています。悲報を受け取った奥さんの梅子さんは、このとき、涙を見せなかったようです。かねてから、伊藤博文は梅子に対し「予(かね)てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」と、語っていたそうです。男女の別なく見られる、明治人の気概を感じさせるエピソードです。
さて、以上のように伊藤博文の象徴的な事例を、恣意的に取り上げてきました。ここでの主要な論点は、伊藤博文は、不確実な状況下で、どのような課題設定および課題推進を行ったのか、という点です。彼は、抽象度の高い国家というシステムの創設を課題設定にしつつ、複数の関係者への
積極的な働きかけを行っていました。それは、大久保利通のように、構想を打ち立て寡黙に、猛烈に推し進めるわけではなく、また、大村益次郎のような合理的で緻密な作戦を考えたわけでもありません。どちらかというと木戸や大久保が描いた近代国家像の成立の過程で発生した対立関係の中で、上手に、あるいは泥臭く立ち居振る舞う様子です。まさに周旋家としての才覚を発揮したのだと思います。中でも、彼の特徴的な能力とは、当初とは異なる急な方向転換をして加速的に進んでいく、アジリティという能力に代表されるかもしれません。
このアジリティとは、『日本の人事部』の人事辞典によれば、機敏さや、敏捷性(びんしょうせい)といわれる概念です。機転の早さと考えられるかもしれません。スポーツの世界では、SAQと言われる速さを測る指標があるようで、すなわち、Speed、 Agility、 Quicknessです。Speedは、短距離における一番速い時点の速度を示し、Quicknessとは、止まった時点からの瞬間的な速さ、そして、Agility(アジリティ)とは、急な方向転換を伴う速さを言うようです。伊藤の場合、対立する状況下で当初の方向とは異なる進路を定める機敏さをもち合わせていたようで、すなわちアジリティに秀でていたと思われます。
例えば、熱狂的な攘夷論者だったのに海外に行ったら攘夷論を放棄し、学んだ英語を早速使ってイギリスとの折衝にあたり、そして、政敵として周到に追い出したにもかかわらず、大隈重信を政治の世界に呼び戻したりする、などの振る舞いから確認することができます。これは伊藤博文が「哲学なき思想家、思想なき現実者」と言われる所以かもしれませんが、現実的であるからこそ、この急な転進ができたと考えると、この点は秀逸だと思います。
ところで、伊藤は、どのようにしてこのような非凡な能力を獲得できたのでしょうか。というのも、師である吉田松陰は、伊藤博文とは、愛嬌はあるものの、才覚があるわけではないとし、伊藤を凡人と見ていたと思います。
これは、身勝手な推察にすぎませんが、非凡な能力を獲得した理由とは、やはり彼にとって、この動乱の時代を生きた諸兄の存在が大きかったからではないかと思われます。すなわち、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、大久保利通、木戸孝允、といった偉人の振る舞いを間近に見ながら、仕事を一緒に行ったという共通の経験により得たものではないかと思われます。
諸兄の存在はあまりにも強烈です。国禁だと言われているにもかかわらず黒船に強引に乗り込んで逮捕された吉田松陰、そして80名前後の兵を率いて藩のクーデターを成功させた高杉晋作や、さらには暗殺の直前においても、命乞いをすることなく、「しばらく命を貸してくれ」と叫んで絶命したとされる内務卿の大久保利通、などなどです。
これらの諸兄には特徴的な共通点があります。それは、いずれも私利ではなく、公利のために奔走した人たちで知られるという点です。司馬氏は、こうした私利ではなく、世のため、人のため業をなした明治人の精神性を「格調の高い精神によって支えられたリアリズム」と言っています。伊藤の場合は、こうした格調の高いリアリズムのある人物たちの身近にあって、不確実性下の意思決定、成功や失敗、あるいは壮絶な生き死にを、自分ゴトとして見ることができました。伊藤の成長の背景には、こうした経験の内省から、自分なりの解を作り出し、他の仕事に適応をしていったというある種の経験学習サイクルを想起させます。だからこそ、仮に資質は凡人だったとしても、非凡な振る舞いを開花させるに至ったのではないかと考えさせられます。
したがって、この非凡な能力の発揮理由の一つの帰結としては、格調の高いリアリズムをもった先輩がいること、そして先輩の振る舞いからよりよく学ぶことが、人を開花させる、と言いたいのですが、皆さんにはどのように見えたでしょうか。
2.執筆者プロフィール
会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント