何度も何度も「Sonderbehandlung」(特別処置)。
以下のコメント欄で、「Sonderbehandlung」について物言いが付いたので、今一度記事を起こしておきたいと思いました。今後も何度も記事にするかもしれません。
基本的な知識については、海外のWikipediaから翻訳紹介するのが一番手っ取り早いので以下に示します。日本語のWikipediaはこの分野、非常に弱いので仕方ありません。
ところで、私は自分の翻訳記事では「Sonderbehandlung」を「特別処置」と統一表記するようにしています(修正できていないものもあります)。機械翻訳を通すと「特別待遇」や「特別扱い」、「特別措置」、「特別処理」などの訳語が出てきますが、どれも元は同じ「Sonderbehandlung」なので、同じ表記にすべきだろうとの考えです。しかし、実は日本語で翻訳表記するのは違和感がずっとあって、本来は当時用いられていたままの「Sonderbehandlung」の方が良いのではないかと考えています。例えば火葬場で遺体処理などをしていた囚人(囚人だけを指すわけではありません)をゾンダーコマンド(Sonderkommando)と呼びますが、「Sonder」が共通しており、統一的な理解がしやすくなる感じがします。しかし、元の表記のままでは意味がよくわからないこともあるかと思って日本語の特別処置と表記しています。
この手の翻訳関連で最も厄介だったのは「bunker」で、アウシュヴィッツ・ビルケナウの最初のユダヤ人絶滅用ガス室を指す用語として用いられているのですが、「bunker」は固有名詞ではなく一般名詞なので、本来は英語読みの「バンカー」と書くべきだと思っています。ところが、日本ではこのガス室を「ブンカー」と呼ぶのが一般的らしく、また「ブンカー」と書けば何を意味しているのかが明らかになるので、ビルケナウの最初のガス室に限り「ブンカー」としています。でも、「bunker」という表記はそれ以外でも使用されており、それらはそもそもの一般名詞として意味が重要だったりするので、同じ言葉である以上、区別して書くのはモヤモヤするものがあります。
できるだけ、柔軟に対応するようにはしてはいますが、そういった気配りがなかなか難しいものがあります。例えば、「liquidation」という用語が当時の文書には頻発していますが、これを「清算」と訳すか「処刑」と訳すかについては、「清算」とする場合が多いですが、いまだに確固とした方針はありません。同じ表記の英単語をweblio辞書で調べると「清算、整理、弁済、一掃、除去、打破、粛清、殺害」などがあり、この候補にはありませんが「処刑」も使えます。そこで、文書の文脈や意図を類推して「処刑」としたりすることもありますが、否定派には同意できない場合もあるでしょう。
こうした翻訳上の問題で最も議論になったのは、ヒムラーのポズナン演説です。
ここで出てくる重要な単語である「Ausrottung」は一般的には「絶滅」と訳すのですが、修正主義者の多くは「根絶やしにする」と訳すべきだと主張します。この件で私自身、旧Twitter上で西岡昌紀氏とかなり感情的なやり取りを続けましたが、私も西岡も一歩も引きませんでした。ドイツ語ネイティブなドイツ人は修正主義者ですらもどうやら「絶滅」で合っているとするそうなので、この件はドイツ語ネイティブでない修正主義者の誤りなのですが、実は私自身は「根絶やし」でも別に構わない感じもしています。というのは、根絶やしも絶滅させることを意味するからです。ネットで確認すると、
となっています。修正主義者はどうやら「Ausrottung」は、ユダヤ人をいなくすることだけを意味するのであって、「殺す」を含意しないと主張したいらしいですが、独英辞書(第二次世界大戦当時の辞書にすら)には「殺すこと」を含意する「extermination」もきっちり書かれており、無理のある主張ではあるのです。とは言え、翻訳問題はなかなか難しいのです。
今回扱う「Sonderbehandlung」は、それが何を意味するのかはこの単語自身からは明確でないことははっきりしています。字義的にはあくまでも「特別処置」であって、直接的には殺害を意味しません。ですから当然、修正主義者は殺害を含意しない読み方以外は承認しません(ただし、殺害である場合があること自体は除外はされていない)。確かに、以下の翻訳でも書かれているように、「Sonderbehandlung」が直ちに「殺害」になるわけではないようですが、一方で殺害を隠すために「Sonderbehandlung」を使ってカモフラージュし、部外者には意味を分かりにくくしていたとするのが定説的な主張ですので、「Sonderbehandlung」を使ったのはそのような意図があったからだ、と考えなければなりません。
ところが、冒頭で述べた「物言い」の主は、例えば死刑は特別なことだから、特別な処置を意味することになるので、「Sonderbehandlung」と呼んだのだ、なる……正直言って珍説を披露されたのです。定説的な解釈とは似てはいますが、この主はカモフラージュの意図をすっかり取り去っているところが定説とは異なります。
そこで今回は、一般的には「Sonderbehandlung」がどのように考えられているのかを、英語版とドイツ語版のWikipediaから翻訳して紹介したいと思います。
▼翻訳開始▼
Sonderbehandlung(特別処置):英語版ウィキペディア記事
Sonderbehandlung(ドイツ語: [ˈzɔndɐbəˌhandl(、「特別処置」)[1]とは、あらゆる優遇処置のことである。しかし、Sonderbehandlungという言葉は、ナチスの幹部や親衛隊によって大量殺人の婉曲表現として使われ、彼らは文書の中でS.B.という略語をよく使っていた。この言葉が最初に注目されたのは、1939年から1941年にかけてナチス親衛隊の医師たちが精神病患者や身体障害者を殺害したT4作戦のときであり、ナチスが大量殺人や大量虐殺を文書化するために使用した非特異的な言葉のひとつであった。もうひとつの特筆すべき例は、Sonderbehandlung14f13である。
この用語はまた、ガス室やチクロンBなど、彼らの犯罪を実行するために使用された設備を不正確に指すためにも使われた。1943年4月、ハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者は、Sonderbehandlungの本当の意味は親衛隊の中で広く知られており、その安全性を懸念して、秘密報告書の中でそれを修正させた。
ベレル・ラングは、「......通信を発行する者の意図が、抵抗の可能性を最小にするためにユダヤ人を欺くことであったときに、ユダヤ人大衆に発行された通信においてだけでなく、外界に向けたアドレスにおいても、そしておそらくより重大なこととして、言語規則によって規定された言語的置換を疑いなく知っていた(時には彼ら自身が責任を負っていた)役人たちの内部通信においても、偽装された言語が使用された」と述べている[2]。
背景
1941年夏までに、T4作戦はドイツ国内(および中立国や敵国)で広く知られるようになり、1941年8月24日、ヒトラーは作戦総責任者のカール・ブラント博士に、国民の抗議を受けて作戦を中止するよう命じた; しかし、作戦は人目に触れないだけでなく、より激しく続けられた[3]。ヒトラーは、命令によって再び公に恥をかかされる危険を冒したくなかった。その結果、ホロコースト実行の明確な命令は口頭で下された。仮にこの命令の文書があったとしても、ナチスの敗北が避けられないと悟った時点で、ほぼ間違いなく破棄されていただろう[4]。
ナチスが殺人を記録しなければならない場合、Sonderbehandlungは数ある婉曲表現のひとつであった。T4作戦の医師たちは、精神障害者や身体障害者のガス処刑を記録するために「desinfiziert」(「消毒された」)を使用した[5]。ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させる実際の計画は『Die Endlösung der Judenfrage』(「ユダヤ人問題の最終解決」)と呼ばれた。絶滅作戦を表す他の言葉には次のようなものがある:
'Evakuierung' (疎開)
'Aussiedlung' (追放、排除)
'Umsiedlung' (再定住)
'Auflockerung' (「間引き」-ゲットーからの住民の排除のように)[6]
'Befriedungsaktion' (宣撫)[6]
'Ausserordentliche Befriedungsaktion' or 'A.B. Aktion' (特別宣撫)[6]
'Abwanderung' (移住経験あり)[6]
'Säuberung' (清掃)[6]
'Sicherheitspolizeilich durchgearbeitet' (Sicherheitsdienst(警備)に従った方法で「指示」された、または作業された)[6]
ハインリヒ・ヒムラーが1943年10月に行ったポーゼン演説は、ナチス政府の高官が戦時中のホロコーストの実行について明確に語った最初の文書として知られている。ヒムラーは、「ユダヤ人の疎開」(Judenevakuierung)に言及しており、ユダヤ人の絶滅と同義に使っている[7]。演説のある箇所で、ヒムラーは「ユダヤ人の排除、絶滅、我々はそれをやっている」と言い、「排除」('Ausschaltung')の途中で少し間を置いてから「絶滅」('Ausrottung')と言い続けている[7]。彼が「除去」と言う途中でためらったのは、聴衆の前でそのような言葉を使ってもよかったかどうか、心の中で素早く確認したのだと考えられる[7]。しかし、このスピーチは親衛隊の幹部に対して私的に行われたものであるため、そのような言葉を使っても問題はなかっただろう。これは、1943年2月18日の総力戦演説で、ヨーゼフ・ゲッベルスが「ユダヤ人の絶滅」(Ausrottung des Judentums)と言い始めたが、非常に公然と話していることを念頭に置いて「Ausschaltung」と言い換えたという、逆の意味で自己検証を行った別のケースと比較されている[7]。その結果、彼の言い回しは「Ausrott... schaltung des Judentums」となり、英語では「exterm... elimination(絶め...排除)」に例えられる[7]。
使用方法
この言葉が初めて登場したのは、1939年9月20日、ゲシュタポと親衛隊大将のラインハルト・ハイドリヒがすべての州警察に出した法令だった:
しかし、この用法はユダヤ人ではなくドイツ人に向けられたものである(「戦争における国内国家安全保障の原則」に関するものである)。とはいえ、この法律は、政権が望むあらゆる人物の殺害を認めていた。6日後の国家保安本部での会議のメモには、Sonderbehandlungの後に括弧書きで「処刑」と定義されている[8]。
1941年10月25日付の東部戦線からの報告書には、「伝染病の重大な危険のため、ヴィテブスクのゲットーからのユダヤ人の完全な清算(処刑)が1941年10月8日に開始された」とある。特別処置が適用されるユダヤ人の数は約3000人である」[8]。1942年2月20日付のRSHAからの命令の抜粋であり、「外国人民間労働者」の扱いに関してヒムラーが書いたものであるが、特に困難な場合には、特別処置をRSHAに申請すべきであると勧告しており、「特別処置は絞首刑によって行われる」と付け加えている[9]。RSHAへの書簡の中で、ハインツ・トルーエ親衛隊大尉は、RSHAへの手紙の中で、親衛隊大尉のハインツ・トルーエは、「…特別な方法で扱われなければならないユダヤ人の輸送のために…」として追加のガスバンを要求している[10]。ガス車は密閉されたコンパートメントに被害者を閉じ込め、そこに排気ガスを送り込み、一酸化炭素中毒と窒息の複合作用で被害者を死に至らしめた。
装備
ドイツ語では、「特別な」を意味する「Sonder-」は複合名詞を形成するのに使われる。ナチスは、行為に言及するときだけでなく、殺戮を実行するために使われた実際の装備に言及するときにも婉曲表現を使った。トルーエは書簡の中で、バンを'S-wagen'(「Sバン」)、'Sonderwagen'(「特殊バン」)と呼んでいる。その他の文献には、'Sonderfahrzeug'(「特殊車両」)、'Spezialwagen'(「特殊バン」)、'Hilfsmittel'(「補助装備」)などがある[11]。
アウシュヴィッツ強制収容所に関する文書には、このような設備に関する具体的でない表現がいくつか見られる。1942年8月21日付の書簡は、「ブンカー1」と「ブンカー2」(ビルケナウの西にあるガス室に改造された農家)を'Badeanstalten für Sonderaktionen'(「特別行動のための入浴施設」)と呼んでいる[12]。この書簡では、この言葉は引用符で囲まれており、さらに、婉曲的な意味であることを示唆している。設計図では、火葬場IIとIIIの地下ガス室は単に'Leichenkeller 1'(「地下死体安置室1」)と記されており、地下脱衣室は'Leichenkeller 2'と記されていた。しかし、1942年11月27日付のアウシュヴィッツ主任設計者カール・ビショフ親衛隊少佐宛の書簡は、火葬場IIの死体安置室1を'Sonderkeller'(「特別な地下室」)と呼んでいる[13]。1943年3月6日付の、火葬場IIとIIIに関する親衛隊少佐のルドルフ・イェルリングからオーブン業者J.A. Topf and Sonsへの書簡は、死体安置室2を'Auskleideraum'(「脱衣室」)と呼んでいる[14]。ガス室を空にし、死体をオーブンに積み込むことを強制された囚人の部隊は、'Sonderkommando'(「特別部隊」)と呼ばれた。1942年8月26日付の文書が、収容所当局に「...特別処置用の材料を引き取りにデッサウに...」トラックを送ることを許可した。- デッサウは、チクロンBが製造された2つの場所のうちの1つであった[15]。アウシュヴィッツでの殺戮の標準的な用法が適用された。ビショフが署名した1942年10月13日付の書簡には、新しい火葬場施設の建設は「...特別行動によって引き起こされた状況のために、1942年7月に直ちに開始する必要があった」と書かれている[16]。1943年9月8日、5,006人のユダヤ人が、「SB6ヶ月」という指定で、テレージエンシュタットからアウシュヴィッツに移送された[17]。6ヵ月後の1944年3月9日、まだ生きていた人々はガス処刑された[17]。 親衛隊中尉で医師のヨハン・クレーマーは、彼の日記の中で、集団ガス処刑を初めて見たときのことを記している:
その3日後、クレーメルは「ムゼルマン」とあだ名された、やせ細った囚人への大量ガス処刑について述べた:
ビショフ親衛隊少佐がハンス・カムラーSS親衛隊上級大佐にあてた1943年1月29日付の書簡の中で、ビショフは、アウシュヴィッツの第二火葬場の地下死体安置室1を「Vergasungskeller」、文字どおり「ガス室」と呼んでいる[19]。その手紙にはアンダーラインが引かれ、文書の上部にはこう書かれている: "SS-Untersturmführer Kirschnek!"(親衛隊少尉キルシュネク!)[20] 建設事務所では、「ガス室」などという言葉を使うべきではないという非常に明確な方針があった:キルシュネク少尉にこのスリップを知らせるべきだ。[20]。このユニークな書簡を引用して、ロバート・ヤン・ヴァン・ペルトは、絶滅や殺戮の代わりに「特別行動」や「特別処置」を用いることで、自分たちのしていることを自分たち自身で否定しようとしたという点で、最初のホロコースト否定者はナチス自身であったと述べている[20]。
感受性
ハインリヒ・ヒムラーは、ユダヤ人の破壊を文書化することの安全性をますます懸念するようになった[21]。1943年4月9日、彼はハイドリヒの後任のゲシュタポとSDの長官であるエルンスト・カルテンブルンナーSS親衛隊大将に、コルヘア報告書に関する秘密書簡を書いた[21]。ヒムラーはこの報告書を「カモフラージュの目的でよくできており、後世に役立つ可能性がある」と考えた[21]。翌日、ルドルフ・ブラント親衛隊中佐は、報告書の著者であるリヒャルト・コルヘアに次のようなメッセージを伝えた:
ヒムラーは、「特別処置」の意味をほとんどの人が知っていると確信しており、問題の文書が最高機密であったにもかかわらず、それをさらに曖昧な「durchgeschleust」(「通過」)に置き換えるよう命じた[9]。総督府で問題になっている収容所とは、トレブリンカ、ソビボル、ベウジェツ絶滅収容所、そしてマイダネク強制収容所である。ヴァルテガウの唯一の収容所はヘウムノ絶滅収容所だった。
ナチスの見解
ナチスの戦争犯罪に関する捜査や刑事訴訟の過程で、関係者の間では、この言葉が何を意味するのか疑問の余地がなかったことが示された。アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は裁判で、特別処置とは殺人のことだと「誰もが知っていた」と述べた[22]。
その後、彼は説明を拡大し、「特別処置」には殺害以外の補助的措置も含まれることを指摘した[23]。
獄中で書かれた回想録『ゲッツェン』では、彼はさらにSonderbehandlungの意味についてコメントし、Sonderbehandlungには明らかに致死的な意味と、その他の可能性のある意味の両方があると説明し、それぞれの意味について資料的な例を示している[24]。
親衛隊中将であり、SSと警察の上級指導者であったエミール・マズウによれば
▲翻訳終了▲
▼翻訳開始▼
Sonderbehandlung(特別処置):ドイツ語版Wikipedia記事
ナチスの言葉では、"Sonderbehandlung"(S.B.)は人殺しの隠語だった。
婉曲表現
「ユダヤ人問題の最終解決」、「強制送還」、「再定住」、「疎開」といった婉曲的な用語は、実際の行為を偽装するためのものであった。同じ目的で、SSの医師たちは、ハルトハイムの統計の中で、「ガス処刑」の代わりに「消毒」という用語を使った。ゲシュタポが課したいわゆる保護拘禁もまた、被影響者を社会から排除し、その後に殺すためのものであった。
用語の使用
この用語は、1939年9月20日、ラインハルト・ハイドリヒ治安警察・国家保安本部長官が全州警察に宛てた「戦時中の国家内治安の原則」を扱った通達の中で、処刑の合言葉として登場した。 特に次のように書かれている: 「1(ドイツ国民の戦闘力の分解)の場合、通常の方法で対処できるものと、特別な扱いを受けなければならないものとを区別しなければならない。後者の場合、その非難性、危険性、または宣伝効果から見て、関係者に関係なく(すなわち処刑によって)根絶されるのに適した事実の問題である」[1]。
ハインリッヒ・ヒムラーの国家保安本部(RSHA)が出した「外国人民間人労働者」の扱いに関する法令からの抜粋である:
ナチス裁判の過程で、この用語の意味するところについて、関係者の間に疑いの余地がなかったことが明らかになった。親衛隊中将であり、高等SS・警察リーダーであったエミール・マズウは次のように述べている:
アウシュビッツ裁判の過程で、ロベルト・ムルカ被告はこのことを認めた:
1943年春までに、この用語は非常によく知られるようになり、コルヘア報告の中でヒムラー親衛隊全国指導者の意見では、もはやカモフラージュの機能を果たせなくなった。
1943年4月10日付のヒムラーからリヒャルト・コルヘアへの指示にはこうある。
しかし、1948年のニュルンベルクOKW裁判では、将校側の弁護側は、「特別扱い」は処刑を指すものではないと主張した[5]。
用語の変種
カモフラージュのための呼称の変種の一つに、「独立した宿泊施設」があった。例えば、1943年3月15日の第36次いわゆる「東への輸送」のアウシュヴィッツ到着に関する無線伝言記録に見られる。この文書は、ベルリンのSS経済管理本部に提出された、現存する3通の報告書のうちの1通である: 「K.L.アウシュヴィッツがベルリンからのユダヤ人輸送を報告。ユダヤ人総数964名。男性218名、女性147名が労働に従事した[...]。別に、男性126名、女性と子供473名が収容された」[6]。
1942年2月、NSDAP党員が「ドイツ人と結婚したユダヤ人」の免除を批判した際、ユダヤ人の星をつける必要がないとして、「特別処置」という言葉が、より良い身分という標準的な言語的意味で帝国からの報告の中で使われた[7]。
▲翻訳終了▲
要は、普通はそう考えるってだけの話です。
また、戦後の証言を認めるならば、「Sonderbehandlung」が隠語・カモフラージュ用語であることは明確です。上の翻訳内にも戦後証言はありますが、アイヒマンはこうも語っています。
以前にもまとめましたが、ポーランド人の証言集の翻訳から引用します。
今まで記事もいくつも起こしてきましたが、例えば以下のような記事もあります。
他にもいくつもコードワードを扱った記事がありますが、「Sonderbehandlung」をはじめとするコードワードを「「殺すことを意味する」と読むべきではない、それは偏見である」と言われると、じゃぁこれらの戦後の証言は何なん?と言いたくもなるってものです。修正主義的には、「それらの戦後の証言は嘘」で統一されているわけですが、定説的に「Sonderbehandlung」などの用語がコードワードであることは何の矛盾もないのに、なぜ嘘とみなさねばならないのか、意味不明にしか思えません。
それら証言を嘘とする人たちは、当時の文書の表現をその書かれた通りに読むべきであって、ホロコーストがあったことを前提に読むのは偏見であると主張しますが、一方でそうした主張をする人たちは戦後の証言は嘘である可能性があるから信用すべきではない、などと逆の意味の偏見を強要するのです。なぜ、それらの人たちは悉くダブルスタンダードなのか? 私には未だにそれがよく分かりません。
同様の記事はまた何れまとめたいと思います。言っても言っても聞かない連中なのでどんだけ記事を起こしてもあんまり意味ないんですけど、これが私の趣味なので仕方ありません(笑)
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