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男性を敵に回したいわけじゃない——ただ、その冗談で笑える特権の大きさを分かってほしい

特権保有者の特権の一つは自らの特権に気がつかないこと。

Acker, J. (2006). 'Inequality regimes: Gender, class, and race in organizations.' Gender and Society, 20(4), 441-464, 452, citing McIntosh, P. (1995). 'White privilege and male privilege: A personal account of coming to see our correspondences through work in women's studies.' In Race, class, and gender: An anthology, 2nd ed., edited by M. L. Andersen and P. H. Collins. Belmont, CA: Wadsworth.(筆者訳)

ジェンダー学をやっているとか、フェミニストだと名乗る女性に出会うと構えてしまう男性は多いのではないかと思う。「男」であることの人格全てを否定されるのではないかと。私がプロフィールに「フェミニスト」と書かない理由もここにある。そんな風に構えて欲しくないし、ジェンダー学もフェミニズムも、決して男性批判ではない。男性優位な社会構造を批判するものではあっても、男性一個人の人格を否定するものではないのだ。それに加えて、私は、社会が突然変わるとも思っていないし、不公正なこと全てを締め出していたら狭い世界に閉じこもるしかなくなって、現実社会を少しずつでも変えていこうという方向に繋がらないと思っている。セクハラととれる発言を一度でもしたことのある人を全員排除していったら、潔癖なフェミニストだけの限られたコミュニティでしか生きられなくなってしまう。こんな風に言えるのは、おそらく私が特に深刻なトラウマを抱えていない、現状のジェンダー規範に寄せて振る舞うことがあまり苦痛ではない幸運な立場にいるからなのだけど、社会全体を見ればそういう人間も必要だと思う。伝統的な男社会の中でのらりくらりやっていきつつ、ほんの少しでも空気を変えるのに役に立てればいい。

「今の子、抱ける?」の何がそんなに問題なのか

同年代の同僚で飲んだ際に、以前の上司のセクハラ発言として、その同僚(男)の同期の女性が彼の部署に仕事の用事で立ち寄って出て行った直後、彼の上司(男)がその女性のことを指して「今の子、同期でしょ。どう?抱ける?」といったことを冗談めかして聞いてきたという話が上がった。もちろん明らかなセクハラ発言なのだが、こういう男同士の冗談の何がそこまで嫌悪感を呼ぶのか考えると、それが、男性が多く伝統的に男性優位の職場で、異性愛を前提とした「男らしさ」を尊ぶ、非常に歪で特殊な権力構造の中でしか冗談として機能しないことであり、しかもその特殊性をおそらく本人たちが認識していないことなのではないかと思う。
 「今の子、抱ける?」という質問の中には、暗に、その女性が誰もが魅了されるほど魅力的ではないけれども「女」として見られないほどには不細工ではないこと、そしてそういうとても惹きつけられたり恋愛感情を持っていたりするわけではない女性でも性行為の相手としては見ることができるのが「男らしい」性欲であること、男性の目線で性行為の相手と見られるかどうかが「女」として認められるかどうかを決めること、評価するのは男性側であり、想像上女性は力で屈服させて性的に搾取できる対象であること、といった前提が含意されている。本人たちはそんなことは意味していないと言うかもしれない。だが、そういった前提がなければ、職場という環境で、上司と部下のやり取りとして、決して「面白く」ないはずだ。この「面白さ」というのは、男同士の間で実際には誰でもいい女性をネタにして、自分たちが同じ「男らしい」側にいることを確認し合うものなのだと思う。この質問を冗談ととって「面白い」返しができることが、部下がその上司や組織側と同じ「男らしさ」を共有した仲間であり、「ノリがいい」若者であることを証明する。それはそのまま、「仕事ができる」「頭が切れる」といった「男らしさ」と相関関係にある仕事上の評価に繋がり、ホモソーシャルな結束を強めていくのだ。

今真っ向から逆らえなくてもいいから、同じことを聞く上司にはなってほしくない

一番上の管理職を見ればほぼ男性しかいないような古い職場で、品定めされている時代の入社数年目という立場で、こういった冗談に真っ向からノーと言うことがどれだけ難しいかはよく分かっている。私だって、その場に居合わせたとして、冗談めかして「それセクハラですよ」と言うのが精一杯だろうし、おそらく聞こえなかった振りをしてしまうと思う——頭の中でその上司に「飲み会で近くに座りたくない」チェックを付けて。東大時代から、そうやって軽く笑って流す習慣をつけてきてしまった。だから、同年代の男性に表立って上司を諌めてほしいなんて思わないし、同調する人は友達じゃないなんて極端なことはとても言えない。ただ、そういう場面で、そこに流れる力関係の特殊さに気づいてほしいし、そうやって男同士のノリについていける人が得ている優位性を自覚してほしい。女性に限らず、心の中で居心地悪く感じている人はいるはずなのだ。そういう疎外された「他者」に対して、些細に見える冗談までもが組織の本流にいる「男らしい」男性たちの絆を強め、既得権益を維持しているということを、客観視できる冷静さを持っていてほしい。そして、自分が部下を持った時には、無批判に同じことを繰り返さないでいてくれたらと思う。軍国主義の時代かと見紛うような「男らしさ」でがちがちに固めた出世ルートを維持しても、多くの人は幸せにならないと思うのだ。

人生100年時代、プライベートも必要でしょう

組織論との関係で別の記事に書いたような、職場において伝統的に重視されてきた「男らしい」評価基準には、論理性、厳格さ、仕事への献身、公私の別などが含まれる。

「家庭を顧みず」仕事第一で長時間労働をするのが使い勝手のいいサラリーマンであり、そういった姿勢を「男らしい」生き様だと崇め奉ることで日本の「ワーカホリック/仕事中毒」な社会が出来上がっていると思う。でも、それで誰が幸せになっているのか?終身雇用でない選択肢も増え、独身と共働き世帯が圧倒的に増えた時代、昔ほど残業代と上司からのポイントを稼ぐ必要性が高くないはずだ。むしろ、家庭にしろ趣味にしろプライベートの時間を持たずに60-70歳まで仕事一筋で過ごした場合、その後の人生をどう楽しむのか?退職してから第二の人生を開花させる人もいる一方で、退職したら「腑抜けになった」「急にボケた」「社会から孤立した」などと言われるのは女性より男性が目立つ。それはきっと、仕事以外に社会との繋がりや生きがいと呼べるものがなく、退職という形で突然人生の中核を失った時に、途方に暮れてしまうからではないか。人生100年と言われる時代、長くてもたった40~50年に過ぎないサラリーマン生活に全てを捧げてしまうのは危険だ。だから男性だって、当たり前にプライベートの時間の確保を主張していくべきだと思うし、そうやって主流の男性が変わらなければ組織は変わらない。そんな思いで、妥協的なフェミニストをやっている。


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