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「時給1万円で働ける人が家事をするのは非効率」という論理の乱暴さ②

時間が開いてしまいましたが、前々回の記事の続きです。

引き続き、Nancy Fraserの著書『中断された正義/Justice Interruptus: Critical reflections on the 'postsocialist' condition』(1997)の一章 'After the family wage: A post-industrial thought experiment' (pp.41-68) を参照しつつ書いていきたいと思います。

②北欧型:家事従事者への生活費給付は解決策になるか

米国型 ‘Universal Breadwinner Model’ とは対照的に、「再生産」を主に家庭の役割として残しつつ、そういった「ケア」を担う人に政府から生活費――「再生産労働」への対価――を給付するという方向性をとるのが北欧型 ‘Caregiver Parity Model’ です。育児や介護に明らかなように、どの程度の「ケア」が必要かは時期によって変化します。そのため、このモデルでは、有給の仕事に就いていた人が「ケア」のために就業時間を制限したり辞めたりした場合、シームレスに生活費が支給され、他からの収入の上下に合わせて支給額が変動します。「再生産」を担う人が損をしないことを目指すという考え方なのです。
 これは一見すると、Wages for Housework運動が目指していた形のようにも見えます。家事・育児といった「再生産」が報酬を得るに値する「労働」と認められ、専業主婦も夫の収入に依存することなく経済的に自立できるからです。しかし、Fraserは、このモデルが理想的に機能したとしても、男女間の真の平等は実現されないと指摘します。例えとして挙げられたのが、北欧のいわゆる ‘mommy track’ です(p. 57)。「ケア」の必要性に応じて時短で働いたり休職・退職したりすることが想定される人は、そういった柔軟性の大きい職種・職場を選びます。しかし、中断を前提とするキャリアは、継続して働き続けることを想定したキャリアに比べて賃金が低くなり、安定性に欠ける場合が多いのです。そういった現状を分かっていれば、多くのカップルにとって、1人が前者、もう1人が後者と役割分担してキャリアを歩むことが賢い選択となります。そして、前者の柔軟なキャリアを選ばざるを得ないのは往々にして女性の側なのです。この結果、子どもを産んで産休・育休を取ったり時短勤務をしたりする女性のための ‘mommy track’ が生まれ、男性中心の「より稼げる」仕事に比べて社会的地位も低くなってしまうのです。
 「社会的再生産」の担い手という観点から考えると、このモデルは、女性が「ケア」を担うという従来の構造にあまり変化をもたらさないと言えます。また、「再生産労働」が「生産労働」に比べて価値の低いものとされてしまう現状も変わりません(p. 58)。「ケア」に対して給付金が支給されるとは言っても、連続して勤務し続ける男性中心のキャリアほどの収入が得られるわけはなく、「再生産」の担い手は二次的な地位に置かれてしまいます。政府からの給付金というものに対して、どうしても「自立できていない」という偏見が付き纏うのも問題でしょう。一部の人(主に女性)が「再生産」を担い、それに対して金銭的補償をするという方針では、「社会的再生産」に対する価値観を抜本的に変えることにはならないのです。
 Fraserの文献を読みながら、オランダでホームステイをした際のホストマザーとの会話を思い出しました。オランダの政治首都であるハーグは、議会や各国大使館、国際裁判所などが立地する、安全で裕福な都市です。その中心部に住んでおり、3人の子どもが実家を出てアムステルダム等で大学に通っているという夫婦の家にホームステイさせてもらっていました。そのご夫婦は、朝は庭の手入れをし、週2〜3日はテレワーク、残りは出勤して、夕飯は大抵家で食べ、夜は猫を撫でながらくつろぐといったとても余裕のある豊かな生活を送っていました。人を食事に招くことも多く、ある時は一瞬帰宅していた息子さんが皆に立派なディナーを作ってくれました。ワークライフバランスやジェンダーの面でやはりヨーロッパは進んでいるなぁと憧れたのですが、ホストマザーから、そんなオランダですら多くの女性はパートタイムで働いていると聞いて衝撃を受けました。彼女は法学部卒だそうなのですが、出産・育児が挟まることで男性と同じようには働けず、子どもの手が離れた今も2つの仕事をどちらもパートタイムで行っていました。そして、周りの女性も大体似た状況だそうです。日本では、ヨーロッパの一部、特に北欧の国々を幸福度の高い福祉国家として美化しがちですが、それも完璧ではないのだと思い知りました。

③ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)という発想

このように比較した2つのモデルに対して、Fraserは ‘Universal Caregiver Model’ という新たな提案をします。従来の男性的な働き方に合わせたり、役割分担を固定化したりするのではなく、誰もが「ケア」を担う社会を目指すという考え方です。言葉を換えれば、前述2つのモデルが大筋では女性に変化を求めるのに対し、男性に変化を求めるのが ‘Universal Caregiver Model’ です(p. 60)。有職者の全員が同時にcaregiverでもあることが想定される社会では、従来のような職場での労働時間は短くなり、自らの子どもやケアすべき家族がいない人でも市民社会のコミュニティの中で「再生産」に関わることになります(p. 61)。こうして男女間の「役割分業」を排し、ジェンダーと仕事のステレオタイプを覆すことは、ジェンダー規範の根本的な解体にほかならず、それなくして「ポスト工業社会の福祉国家におけるジェンダー平等」は実現できないとFraserは主張します(p. 62)。
 「社会的再生産」の重要性を認め、誰もが社会の一員として積極的に関わるべきであるとの規範を醸成するというのは、「再生産労働」が価値の低いものとして扱われがちな現状への違和感に応えるものだと思います。どれほど「献身的な母親」やコロナ禍のエッセンシャル・ワーカーが神格化されようと、男性も含めあらゆる人がこぞって担おうとするものにならない限り、「ケア」が本当に尊敬され正当に評価されているとは言えません。「再生産」は社会の根幹を支えるものであり、誰もが誇りを持って行うような意義のある活動として認められるべきだという点は、私も強く共感するものです。しかし、Fraser自身も指摘しているように、 'Universal Caregiver Model' は現状からは非常にかけ離れた理想です。ここからは同論文を離れ、こういった理想的社会の実現の可能性の一つとして、ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)という概念を紹介したいと思います。
 現代社会において実際の生活を考えれば、どんなに有意義な活動を行い人々から尊敬されたとしてもお金がなければ満足に生きていけません。だからこそ、重要な仕事に対しては正当な対価が必要であり、この誰もが「再生産」に参画する理想的な社会において金銭的補償となり得る一つの選択肢がUBIです。UBIとは、技術の進歩、特に機械化が進んだことで、人が働かずとも最低限の生産活動は行えるという前提の上で、全ての人に政府から生活費を支給するというアイデアです。突拍子もなく聞こえてしまいますが、現在の  ‘means test’ ベースの複雑な給付金や年金を原則廃止し、各世帯の金銭状況等を調べることなく一律にUBIを支給すれば、相当な行政コスト削減になると言う人もいます。最低限の生活が保証されれば、人々はより自由によりクリエイティブな活動ができるのではないかという発想なのです。
 私自身、以前は、UBIに対してユートピアかもしれないけど非現実的だなというイメージしか持っていませんでした。ですが、「再生産」の担い手に対して「生活保護」に付き纏うような偏見なく金銭的補償を行うためには、あらゆる人が「社会的再生産」に積極的に関わることを規範とした上でUBIを支給するという方法は一案なのかもしれません。

家事がネイルみたいになればいいな、なんて。

「社会的再生産」の理想的なあり方について考察してきましたが、完璧な ‘Universal Breadwinner Model’ や ‘Caregiver Parity Model’ ですら実現できていない現状において、'Universal Caregiver Model' もUBIも現実社会からはほど遠いものです。現実的なレベルで、例えば5年後に私たち夫婦が子どもを持った場合にどうするかと考えると、米国型と北欧型からつまみ食いするような形になるのだろうと思います。スマート家電を入れて、ベビーシッターや家事代行といったサービスも使い、両方の親にも頼らせてもらい、自分たちも育休・時短・テレワーク等を組み合わせる――そうやって、何とかやりくりしていくことになるでしょう。このような想像をした時に強く思うのは、自分より弱い立場の人に家事・育児を押し付ける、そういう人から「搾取」するという風にはなりなくないということです。
 無関係に聞こえるかもしれませんが、ふとネイルに似ていると思いました。もちろんそうでないお店もあるのでしょうが、ロンドンの中心部を離れて住宅の多いエリアに行くと、見かけるネイルサロンは大抵アジア系(ベトナムが多いように思います)の移民が家族で営業しているような小さな店舗です。ネイリストの多くはあまり英語が話せず、黙々とネイルをしてくれます。そうやって椅子に座って黙って手を差し出していると、「お金で彼ら・彼女らの労働を買っている」という気にさせられるのです。言い換えれば、会話がなく、一方の爪をもう一方が綺麗にしているという状況では、対等な人間として向き合っている感じがしないのです。
 東京にいた時、ネイルサロンは贅沢で特別な空間でした。優しいネイリストさんと相談しながら、どんなデザインにしたいかを決め、他愛もない世間話をしながら施術してもらう、自分へのご褒美のような時間でした。そこにはきちんと一対一の対等な関係と互いへの敬意があり、正当な対価を支払ってスキルのある人にお願いしているという構図だったのです。家事や育児を他の人に依頼する場合にも、そういう関係性で依頼できればいいなと思います。家政婦やベビーシッターは、特に住み込みの場合、ヨーロッパでは比較して貧しい国からの移民が低賃金で担うという状況が蔓延しています。ロンドンのネイルサロンもそれを彷彿とさせるものがあるのです。ネイルは生活への必要性で言うと低くなりますが、手元を見た時に気分を上げてくれるものであり、「ケア」の延長だと思います。同時に、自分ですることもできるものです。それを市場経済でサービスとして得るということは、やはり敬意をもって専門家にお願いするという姿勢が必要だと思うのです。
 そういった敬意の根底に必要なのは、その仕事自体に対する敬意です。家事・育児について考えれば、相手の生活、好み、健康、考え方などをよく知っている家族が愛情をもって行う「ケア」は、本来、文字通りプライスレスなはずです。全ての家事を外注するのは不可能だというだけでなく、「時給1万円で働ける人」が無償であっても自ら家事・育児を行おうとするのは「社会的再生産」への貴重な貢献として評価されるべきであり、むしろそれが経済的損失にならないよう社会通念、福祉、「ケア」労働への報酬水準が見直されるべきだと思います。

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