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【オト・コク】私が僕のことを「俺」と呼ぶ件について。

こんばんは、しめじです。

タイトルだけ見るとなんだこれはという感じかも知れませんが、今夜は、ちょっとした日本語の特徴のお話をします。

英語に訳すと全部”Ⅰ(アイ)”

わたし、わたくし、あたし、ぼく、おれ、おいら、わし、うち、おいどん、じぶん

全て、日本語の一人称(自分を指し示すことば)です。
「おいら、おいどん」などはあまり聞く機会は多くないかもしれませんが、残りはそれなりに日常生活で耳にすることもあるのではないかと思いますし、おそらくこれを読んでくださっている方も、一人称は上に挙げた中のいずれかなのではないかと思います。

日本語は一人称がやたらと多いのが特徴です。大半の言語が、一人称を一つしか持ちません。ヨーロッパの言語はほぼそうです。

実際は「一人称」となる言葉はもっと多い。

例えば、次のような会話を見てみましょう。

「お兄ちゃんが先に取ったんだから、これはお兄ちゃんのだ!」
「なんで! 冷蔵庫から出して持ってきたのはぼくなのに!」
「こら! 二人ともお母さんの前で喧嘩をするのは止めなさい!」
「おやおや、どうしたんだい二人とも。おじいちゃんに話してごらん」

これ、兄、弟、母、祖父の順でしゃべっている想定になるのですが、このときの「お兄ちゃん」「お母さん」「おじいちゃん」は全て一人称ということになります。

一人称代名詞を使っているのは弟である「ぼく」だけです。

これも日本語の面白いところで、私たちはその瞬間自分が所属しているコミュニティにおける立ち位置を一人称として使う傾向があります

しかも、その時の自分の立ち位置は、誰を基準に決めているかと言うと、「一番立場が弱い人」です。

だから、この場合は一番年下である「ぼく」という弟が基準になって、その「ぼく」から見てどのポジションになるか、がそのまま一人称になっているわけです。

家族が最も顕著な例ですが、例えば学校の先生が生徒の前で自分のことを「先生」と呼ぶのもそういう理屈です
立場そのものとしては教師が上に来ますから、低い側の生徒から見て「先生」という立ち位置にいるので「先生」という一人称が成立します。

実は一人称以外も全部同じ理屈。

例えば、教師は生徒の前で他の教師を呼ぶとき、大抵「○○先生」と呼びます。
職員室では「○○さん」とか「○○君」と呼ばれることもありますし、私も職員室では「○○さん」とか「○○主任」と呼ぶことがほとんどですが、年齢にかかわらず生徒の前では「○○先生」です。

例えば、さっきの例に挙げた家族の会話でも、お母さんが「お兄ちゃんは我慢しなさい」とか言ったりします。
おじいちゃんが、「お母さん、もう一個買ってきてあげましょうか」などと言ったりもします。

という風に、実際は二人称、場合によっては三人称も同じような仕組みで変わっていくことが多々あります。

この時も、「自分にとって相手がだれか」じゃなくて、「今この瞬間のコミュニティの中で、相手はどの位置にいるか」で呼び分けます
(だって、「お兄ちゃん」はお母さんからすれば「息子」です。「お母さん」もおじいちゃんからすれば「娘」です。おじいちゃんのお母さんではありません。)

時折、夫婦が自分たちのことを「お母さん」「お父さん」と呼び合うのはおかしい、だってそれぞれのお母さん、お父さんじゃないもん、という意見を見かけますが、日本語としては何一つおかしくはないわけです
(もちろん、だからそう呼び合えというわけではなく、どう呼ぶかなんて夫婦の自由ですが、「おかしい」のかと言われれば、おかしくはないよ、というだけの話です)

そう考えると、日本語って非常に相対的なアイデンティティを持つ言語ですね。言語に表れる「自分が何者か」という意識は、相手次第、その時の周りの人間関係次第だということです。
これは、日本語の敬語が非常にややこしい所にも通じています。他の言語にも、改まった言い方などはありますが、相手と自分の相対的立ち位置に応じて、ここまで厳密に語彙が区切られている敬語体系を持つのはごく少数です。

以上、日本語の不思議な特徴のお話でした。
尤も、普段から私たちが使っている言葉なので、言われてみれば当たり前の話なんですが、でもこうして言われてみると、ちょっと不思議な感じがしますよね。

では、今夜はこの辺で。

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