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実はついこの間まで、書く言葉と話す言葉が別だった、という話

こんばんは。しめじです。

今夜は、古典文法の基本的なことから書いていこうと思います。

古典文法って何?

文字通り、古典で用いられている文法です。ただ、「古典」と簡単に言いますが、実際は非常に幅広い年代にわたっています。例えば、授業で扱う量の最も多い平安時代と鎌倉時代だけでも500年以上あるので、当然語彙や文法が多少変化しています。

したがって、古典の文法書や、古語辞典は、この使い方は鎌倉時代以降だよ~、とか、この意味は奈良時代ごろまでだよ~とか書いてあります。特に高校の古典で用いる文法書は、基準を平安時代(中古)に置いて説明しているものが多いです。

さて、この文法、大まかな形はそのまま明治以降も引き続き使われました。「文語文法」とも言いますが、ほとんど同じものです。

例えば森鴎外の「舞姫」。書き出しはこんなのですね。

石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。

ほぼ古文ですね。なんでこれが現代文の教科書に載っているのか、疑問に思った人も多いと思います。

これ、森鴎外がわざと昔の文章に似せて書いた(擬古文といいます)のではなく、この時代はまだ書くときはこの文法も普通だったんです。歴史の授業で「言文一致運動」や「二葉亭四迷の『浮雲』」という言葉を習った記憶がある方も多いのではないかと思いますが、これがちょうど鴎外が「舞姫」を書いたころ。

平安時代に、この「文語文法」となる文法はほぼ完成していました。古典の授業で習う古典文法です。ところが、鎌倉時代に武士が台頭すると、口で話す言葉と、文に書く言葉がどんどんずれていきます。

このずれは特に途中で修正されることもなく、明治時代には話し言葉(口語)と書き言葉(文語)が大きく違うものになっていました。

それを揃えようとしたのが「言文一致運動」で、その先駆者となった作家の一人が二葉亭四迷です。文学者、作家たちが明治20年ごろに始めました。その後、新聞や雑誌もそれに続くようになり、今日のような、書き言葉と話し言葉が大体一緒、という状況になったのです。

話し言葉と書き言葉が別って、ピンと来ないんですけど。

わかりますよ、その気持ち。今日の私たちは、話す言葉と書く言葉がほぼ一致しています。

もちろん、本当に話したままを言葉に写し取ると、結構読みにくくなります。

そりゃもちろん、まじで言ったまんまに書きゃあさ、たしかにね、読みにくいんだけど

という具合です。ですが、飽くまで「砕けた言い方」「改まった言い方」程度の違いであって、別の体系の言語だ、というイメージはないと思います。

ただ、話す言葉と書く言葉が大きく違う言語、というのは歴史上他にもあって、代表的なのはラテン語でしょうか。これは書き言葉(古典ラテン語)と話し言葉(俗ラテン語)が大きく異なっていて、書き言葉は各地域概ね共通だったものの、話し言葉はそれぞれの地域で独自の変化をつづけていきました。その各地域で変化していったラテン語が、今日のフランス語、スペイン語、イタリア語などになっていきます。

日本の古文と同じく、多くの高校生を苦しめている漢文も、完全な書き言葉です。口で言ったことをできるだけシンプルに、その内容だけを整理して記述するための言語で、当時の人たちが漢文に書いてある通りに口に出して話していたわけではありません。

つまり、例えば漢文の中で、登場人物のセリフがあったとすれば、それは「この登場人物はこう言いました」ということではなく、「この登場人物はこういうことを言いました」ということを表現している、ということです。

他にも、アラビア語もきちんとした書き言葉と各地の話し言葉には大きな隔たりがあります。

以上、ちょっとした日本語の豆知識でした。では、今夜はこの辺で。

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