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「著者の意図を答えよ」という出題「形式」について。

こんばんは、しめじです。

今夜は、久々に、ちょっとだけ国語の話をしようと思います。
今から書くことのきっかけになったのは、twitterをフォローしてくださっている方と、このことについて話をしたからです。

「著者の意図を答えろ」という出題形式の是非について。

テーマはこれでした。
別に是非を議論した、ということではないのですが、私なりにこの形式の問題について、考え直すきっかけを与えていただけたと感じています。

まず先に、この

「著者の意図を答えよ」という出題形式について、私の是非を書いておくとするならば、「非とまで言うつもりはないが、雑だとは思う」というあたりです。

少なくとも、このようには思います。
理由は二つ。

1 「著者の意図」を聞く必然性が無いから。
2 表現されたものが、確実に著者の意図を正しく反映している保証が無いから。

2から行きます。
まず、プロの物書きが書いたものだとしても、その表現が間違いなく明確に著者のイメージや狙いや意図を寸分違わず表しているとは限らない。

もちろん、私のような素人に比べれば圧倒的に高い精度で表現されているはずではありますが、それでも言葉である以上、限界があります。
言語の習得はその習得者の経験と密接なかかわりを持ちます。その習得者が積み重ねてきた経験の中で、世界のさまざまな事象が切り分けられて名付けられていくという過程が生まれます。それが言葉です。

概ねの摺り合わせはもちろん行われます。
習得段階に応じて、他大多数の人とのずれを修正したり、切り分け方を変えたり、増やしたり、減らしたり。

具体的な(かつ極端な)例を挙げれば、

例えば、子どもの時に「桃太郎」を親に読んでもらい、その中に出てくる「どんぶらこ」というオノマトペを覚えたとします。
この「どんぶらこ」は、桃が川を下る場面で用いられるので、「なにかしら重みのあるものが、浮かびながら流されている時の表現」だと、その時は理解したとします。
しかし、数年後、小学校の夏休みの絵日記に、家族で川下りをした話を書いて、そこに「船がどんぶらこと揺れた」と書くと、先生に赤ペンで「船が下るときにどんぶらことはあまり言いませんね」とか書かれるわけです。
そこで初めて、「どんぶらこ」は「なにかしら重みのあるものが、浮かびながら流されている時の表現」ではなく、「桃が、浮かびながら流されている時の表現」であると、修正を行うことになるわけです。

子どもが四本足の生き物を全て「わんわん」、大人の男性を全て「ぱぱ」、タイヤついていてエンジン音を響かせて走るものすべてを「ぶーぶー」と呼ぶのも、世界を切り分ける第一歩。

そのうち、「わんわん」の中にも、「わんわん」と鳴くものと「にゃーにゃー」と鳴くものがいることに気づきます。そうやって、どんどんと細かく刻みながら、そのすべてに名前を付けていく。

話がそれましたが、言語習得はこうした経験や体験の蓄積ですから、もちろん抽象度が高い語句になると、各個人で若干の切り分け方の差が発生します。

ということは、そもそも、仮に著者がそのイメージを100%表現することが出来たとしても、それが読み手に伝わる過程で必ずイメージが減衰する、ということです。
そのまま伝わるということは、本来的にはあり得ない、と言ってもよい。

もちろん、それを言い出したら言語によるコミュニケーションが成立しないので、私たちはよく見ると重複していない部分には目をつぶり、重複している大部分を中心に据えて言葉を交わすわけですが。

そして、さらに厄介なことに、国語の試験では「出題者」という第三者まで介入してくる可能性があります。

著者Aの文章を、出題者Bが読み、その出題者Bが理解したものをもとに作られた問題を、解答者Cが解く、という構造です。だから、案外著者Aー解答者Cは遠い。
定期的に、「小説家が自分の小説をもとに作られた入試問題を解いたら満点ではなかった。国語の試験はおかしい!」という記事が出ますが、まあ、私達からすれば当たり前の話です。そして、何もおかしくはない。

そして1。
これを言ってはおしまいのような気もしますが、「著者の意図」を聞く必然性は本来なさそうに思います。
例えば、日本の高校生の大多数が一度は授業で読んだことがあるだろう、芥川の「羅生門」ですが、あの小説は最後の一行が書き変えられたという話が有名です。

老婆のロジックを聞いた下人が、老婆の着物をはぎ取って夜の京へ駆け去っていく場面。具体的には、初出時は

下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。

となっていましたが、その後、私たちが目にする

下人の行方は、誰も知らない。

へと改められています。
で、しばしば教科書で「芥川はどのような意図でこのように書き改めたのか」という問いがなされるわけですが。

私がずっと疑問に思うのは、本当に「芥川の」意図を考える必要があるのか、ということです。
言い換えれば、例えばこの作者が太宰だったとしたら、谷崎だったとしたら、漱石だったとしたら、答えが変わるのか、ということです。

変わらないのであれば、それは「著者の意図」を聞いているのではなく、「一般論として言える表現の効果」を聞いているのに過ぎないわけですから、結果として「著者の意図を答えよ」という設問自体が解答に対してずれを生む。

で、私が知る範囲においては、「著者の」意図が答えられなければならなかった問題は、とても少ない。
もっと言えば、課題文一つからの出題に絞って言えば、ゼロです。
数少ないものの、見たことがある「著者の」意図を本当に答えなければならなかった問題は、同一著者による課題文が複数与えられていて、メインとなるテキストとは別のテキストから、前提となる著者の主張や表現の方向性を読み取ってから答える、というものでした。これであれば、「著者の」が意味を持つように思います。

というわけで、「著者の意図を答えよ」という問い方は、私はそもそも雑だと感じています。
ですが、問い方が雑だ、というだけであって、著者の意図を考えることが不毛かどうかはまた別問題です。
これについては、また後日気が向いたら書きます。

では、今夜はこの辺で。

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