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時事雑感:入試改革をめぐる盛大な迷走に思うこと

こんばんは、しめじです。

この記事によると、大学入試への英語民間試験導入への否定派が6割強、国語、数学の記述式導入への否定派が8割強だったとのこと。

このことについて、一応私の考えを書いておこうと思います。

英語の民間試験導入について

賛成か、反対か、という括りでいうことが難しいのですが、簡単にいうと、

反対するつもりはないけれど、必要ないからその予算と時間と人員を別のことに回せば? と思っている。

という感じです。

母語以外の言語もある程度使うことができる人なら(実感として)わかると思うのですが、日常会話をするための言語と学術に臨むための言語は概ね別の存在です。また、ビジネスの場面での言語もおそらく別でしょう。

そして、私が知る限り、導入予定だった民間試験は、学術に臨むための言語レベルを測るための試験ではないように思います。
この、「なんのために英語を学ぶのか」の方向性が、ずっとふらふらしているように感じます

あるいは、本来発達段階や学習段階に応じて変わっていくはずの部分が、「学校で学ぶ英語」という不毛なまでにざっくりした括られ方で議論される中で、わけのわからないことになっているようにも思います。

例えば、基本的な文法構造を身に着ける段階、自分の要求や思いを言語化して伝えあう段階、抽象的な物事について論じることができる段階、という風にざっくり三つの段階にわけて、それを小、中、高にあてはめて考えてみてもいいと思います。
実際の指導要領がこう分けているわけではありませんが、当然言語の使用者が(成長などによって)変化すれば発生するはずの言語の役割の変化を、どれくらいの人が意識して議論しているんでしょうか。

例えば、東京芸大を見てみると、油画科は存在していて教授数も多いですが、水彩画科はありません。
例えば、「日展」の洋画部門を見てみても、水彩画はほとんどありません。ほぼ全部といっていいほど油画です。
だったら、小学校の図工も油彩まで教えるべきでしょうか。あるいは反対に、小学校が水彩から始まっているのだから、中学校の美術も高校の美術も、あるいは芸大の実技入試も水彩で行うべきでしょうか。
その点において、「学校の図工教育は無駄だ」と主張する人を見たことがありません。

ところが、なぜか「英語だけ」そういう批判にさらされます。学校の英語教育を引き合いに出して、「ネイティブはそんな言い方しない!」というドヤ顔系の本がたくさん出版されているのもその一つ。
学習指導要領のどこかに、文科省答申のどこかに、「英語をネイティブ並に話せるようにする」ということが書いてあったでしょうか。書いてないですよそんなこと。そしてそんなこと目指してないです。

そういう「目的」を無視した方向性の混乱が、入試にも影響しているように思います。そのたどり着いた先が民間試験の導入なのではないか、と思います。

言語って、ツールです。ただの道具です。
だからこそ、「なにに使うのか」はもっとしっかりと想定して、入試もカリキュラムも考えていく必要はあると思います。

例えば、国語であれば、高校の教科書はどれでもだいたい芥川龍之介の「羅生門」が収録されていますが、じゃあ私が進学校と工業高校で全く同じ授業をして、全く同じ試験をしたかというと、そんなわけありません。
教材が同じでも、そこで行われる教育の目的が変わる以上、授業の内容も変わります。

重点の置き方も違いますし、試験で確かめる内容も異なりますし、何ができたら評価するのか、という観点も異なります。本来、そうあるべきです。
それが、あやふやになっている。

あくまで「大学入試」ですから、「学術の場で使う」という前提で考える必要はあるのではないでしょうか。

2 記述式の導入について

数学の記述導入については私は何か言えるほど調べていないので置いておきます。

国語については、はるか以前に書きましたのでリンクを貼っておきます。

3 全体的に

実際は一番「学校組織」に対して強く思っていることなんですが、

目的をちゃんと意識しようよ。

というのが私のベースになる考えです。目的が認識できていれば、手段を議論できます。目的が認識できていないまま手段を議論しようとすると、ぐちゃぐちゃになります。
(そしてそれを繰り返すのが学校の職員会議ですけどね笑)

そういう学校教育という大きな社会インフラが抱える非合理的な一面が、この入試改革の迷走として現れているのかな、と思います。

では、今夜はこの辺で。


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