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帰国後の私

帰国したものの住むところがなかった私と母。母方の祖父母の家に居候するしかなかった。母は一日中、職探し、住居探しなどで留守にしていた。私はというと、日本の高校に編入する為に作文の練習をする毎日だった。

当時の私は小6レベルの日本語の文章と漢字しか書けなかった。散々、母からダメ出しされる日々。

父母の為に協力するスタンスでわざわざ戻ってきたのになんでダメ出しばかりされてるのか、、、英語にしか触れていなかったのだから、出来が悪いのは自然だし、それでも一日中ずっと一人で作文と格闘しているのに、母の態度にも自分の置かれた状況も苦痛しかなかった。

カリフォルニアでは半袖を着ていた10月下旬。

日本は長袖が必要になり、どんどん肌寒くなっていった。

祖父母の家には玄関先に机があって、古い木造家屋は隙間風もあり11月の後半にはだいぶ寒く私には感じた。

とても寒すぎて、勉強が出来ず

勉強が出来そうなところを探したけど、見つからなかった。

他の帰国子女がどんな風に親から配慮してもらったかは知らないけど、私の場合は散々だった。

PCも繋げる環境でもなく、連絡手段は手紙か電話しかなかった。

私はある日、我慢に耐えきれず家族が寝静まるのを待って時差も考えずに彼に電話してしまった。

サンフランシスコはまだ朝の7時だった。

電話に弟が出た。

弟の声に泣けて、'あやかだけど、Cはいる?'と聞くのがやっとだった。弟は'ちょっと待って'と彼に電話を渡してくれた。

朝の弱い彼、授業のない日だったのだろう。

まだ寝ていたようだった。

'Hello?'と寝起きの声が聞こえてきた。

'Hello?あやかだけど、、、、'

私から電話をしたことがなかったので

おどろいて、一瞬で目が覚めたようだった。

'寝てたの?起こしてごめんね'と泣きながら話すと

'全然いいよ。どうしたの?'と優しいトーンになった。

'声が聴きたくて…何か話して'溢れる涙をティッシュで押さえながら、電話先の彼の声に耳を傾けてた。受話器を耳に押し当てるほど近くにいるような気がした。

'あやか、愛してるよ。この前、話してたCD送るから。テレフォンカードかったら電話するから番号教えて。

20分程だろうか?

国際電話は高く、なるべく最低限にするしかなかった。現地では同じ地域なら電話代はかからないし、2人の間に時差もなかった。

今まで直面することのない環境の違いを目の当たりにした。



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