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●要約 リチャード・ランガム「善と悪のパラドックス-ヒトの真価と〈自己家畜化の歴史〉-」(2020 NTT出版)依田卓巳訳

タイトル通り、こちらの本を読みましたので要約です。個人的な要約文なので、誤字脱字もありますし文章的に不味い箇所が多々あるのですが、修正する気力がないのでそのまま上げます。



●善と悪の二面性


チンパンジーとボノボは祖先を同じくする霊長類だが、ある時点で分岐する。大別してしまうと、チンパンジーは攻撃性が高く、ボノボは平和的だ。これはボノボという種が、そもそも攻撃的だった祖先から「自己家畜化(self domestication)」という過程で分岐したからだ。
 
ボノボは攻撃性が低く、ひとつのグループのなかで滅多に争いをしない。ゲームをして愉しみ、同性であれ性行為をしてリラックスし、関係を深めるという特徴がある。同一の群れのなかであれ子殺しを行ったり、別の縄張りの同種を殺してしまうチンパンジーと比べれば、よほど温厚な生き物だ。こういった、もともと攻撃的な種が進化の過程で攻撃性を抑制し、温厚な性格を身に付けることを「家畜化」と呼び、多くは人間が家畜化した動物に現れる。
これを人間の手によってではなく、自然淘汰の流れのなかで適応として身に付けることを「自己家畜化」という。
 
一般的には、イヌとオオカミの違いが理解されやすい。鍵となるのは遺伝子だ。
イヌは進化の過程で、人間の周辺で生きることを身に付けてきた。ゴミ捨て場の食べ残しなどを漁るなかで、人間に対して従順である個体だけが生き残ることで、家畜化が進んだといわれる。現代のイヌはまずヒトを襲ったりはしない。幼いうちにしっかりと躾を行えば、あまりいいことではないけれど、叩いても報復として噛みついてきたりはしない。
 
しかしオオカミは違う。オオカミは自然界で群れを形成して生存してきた。たしかに、オオカミを手懐けることができるだろう。しかし、それは習慣として懐いているだけで、根本の遺伝子レベルでは決して温厚なわけではない。イヌにやるようにオオカミの頭をこづけば、すぐに噛みつき、殺そうとしてくる。
 
理由は家畜化だ。犬は家畜化が進んでいるため、反応的攻撃性が進化の過程で抑制されている。人間が何をしても歯向かわず、従順である個体だけが生き残ることで、反応的攻撃性が淘汰されてきた。しかしオオカミは家畜ではない。オオカミにとって、攻撃されたら即座に反撃して命を守るという行動は、遺伝子に刻み付けられた自然な反射だ。
 
では、ヒトはどうだろうか。
まず間違いなく、ヒトはボノボとイヌに近い。チンパンジーのように攻撃で他者から食糧を(少なくとも平時は)奪おうとはしないし、少しこづかれたくらいでは反射で攻撃を返すということもしない。ましてや、その攻撃が相手の生命を奪うことなどあまりない。
野生種と比べれば少なくとも人は温厚で、平和的な生き物である、といえる。反射的に攻撃に移行する閾値はとても低い。
では、なぜ人間は平和的で温厚な生き物でありながら、時として野生種も行えないほどの残酷で恐ろしい暴力を実行するのだろうか? ボノボのように忍耐強くありながら、チンパンジーのように非常に凶暴なのは、なぜなのだろうか?
 
ヒトが普遍的に抱えるこの矛盾が「善と悪のパラドックス」である。
 

●二つの攻撃性


アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦中に800万人の処刑を命じ、実際に数百万人という犠牲者を生み出した。しかし、実生活では動物の虐待を嫌い、愛犬家で、飼い犬の死をとても悲しんだという。
 
ポル・ポトは悪政で国民の1/4を死に至らしめたが、周囲からは「穏やかに話す親切なフランス史の専制」という評判だった。
 
ヨシフ・スターリンは粛清により数百万人の命を奪ったが、囚人として生きていた頃は驚くほど温和で、悪態もつかない立派な模範囚だったとされる。
 
わざわざ人類の悪人の代表格をとりだすまでもない。私たち一般人だって(ときには芸能人がワイドショーを騒がせるが)ニコニコと笑顔で暮らしながら、時として他者に酷い行為をすることがある。殺人を犯した人の周囲の評判を聴くと「とても人を殺しそうにないが…」というのは珍しくない。
 
これらの答えは、人間の「自己家畜化」が抑制したのが、二種類の攻撃性のうちの一方だけだからだといえる。
 
攻撃性のひとつが「反応的攻撃性」で、自然界によくみられる。その場の感情(主に恐怖心)に従って自身への脅威となる存在を排除する行動である。特徴としては感情的、衝動的、興奮が挙げられ、脳科学的には前頭前皮質の機能低下により起こるという。
 
もうひとつが「能動的攻撃性」だ。これは「反応的攻撃性」と比べて、冷静、計画的、手段的、無感情、捕食的という言葉が挙げられる。襲い掛かられたり、攻撃の示唆をされたりした恐怖感をぬぐうための行動ではなく、常に「外的・内的な報酬」を目的とする。他者の土地、食糧、もしくは地位・名誉を得ようと考えたときに発生する攻撃性である。
 
ヒトも「自己家畜化」を進化の過程で得た種である。チンパンジーのように、ヒトはやたらめったら、毎時毎秒他者と喧嘩をしたり殺し合ったりするわけではない。これは人間の「反応的攻撃性」が、「ある淘汰力」のなかで抑制されてきたからだ。
 
「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」はそれぞれが抑制しあうことはなく、異なる神経回路で行われる。どちらも互いに独立して発達するのであり、逆をいえば、どれだけヒトが自然界から離れ、平和を旨として生きていようと、計画的に誰かを殺そうと考えたりする能力はまったく衰えることはない、ということだ。
 
だからヒトは一見して無害で、平和的で、温厚であるが、しかし、力がある一方向に――なにかを得ようとする方向に向かうとき、恐ろしいほど冷静で、恐ろしいほどに残酷な生き物にある。
 
それは、進化の過程で「反応的攻撃性」が抑制された一方、それを生み出した淘汰圧の影響で、「能動的攻撃性」が強められたからでもある。
 
では、その淘汰圧はなんだったのか?

●自己家畜化


1806年、ブルーメンバッハという動物学者はこう述べる。
「ヒトはほかのどんな動物よりもはるかに家畜化され、最初の祖先から進化している」
1811年にも、
「ヒトは家畜化された動物である……自然の力でもっとも完全に家畜化された動物として生まれ……創造されたあらゆる種類の家畜のなかで完璧な存在だ。」
「原初の世界には、ヒトがある種の家畜として奉仕した高次の存在がいたに違いない」
 
話が神秘的な領域に踏み込みそうだが、理屈としては頷ける。
オオカミ、ブタ、ウシ、ヒツジ、ヤギ、ネコなど、家畜化された動物は多くいるが、それらはすべて人間という存在がいたからだ。それらは野生種の頃と比べて大きく反応的攻撃性が低下し、人間に愛想をよくするという特徴がある。
それらには「人間が飼いやすい個体だけが生き残って繁殖する」という淘汰圧がかかっている。そのために反応的攻撃性の高い個体の遺伝子は残らず、従順で、怒りの閾値が低い遺伝子が残ってきた。
では、人間に淘汰圧をかけたのは誰だったのか?
宇宙人説や各宗教の高次存在をもちだして解決しそうな話だが、これには科学的な説明がなされている。
ヒトを家畜化したのは、ヒト自身である。これはボノボにも共通する「自己家畜化」という進化過程の減少で説明ができる。
 
そもそもだが、実際に、人間が家畜化された証拠はあるのか?
 
家畜化された動物には驚くほど一致する特徴が現れる。それが主に、以下の項目である。
 
・野生種より小型になる
・顔面が平面的になり、前方への突出が少なくなる(吻部が凹む)
・オスとメスの体格の違いが少なくなる(オスの体つきがメスに近くなる)
・野生の祖先と比べて顕著に脳が小さくなる
 
「家畜化症候群」とよばれるこれらの現象は、人間の特徴にも当てはまる。
こういったことがなぜ起こるのかは、「神経堤細胞の遊走パターン」で説明ができる。
受精卵が胚になった際、胚は四つの層に分れる。皮膚をつくる「外胚葉」、筋肉をつくる「中胚葉」、軟部組織をつくる「内胚葉」、そして神経堤細胞である。
この神経堤細胞は胚が成長するに従い、形成中の頭部、体幹の背部組織からグループを形成し、胚のあちこちにちらばる。これが「神経堤細胞の遊走」である。
 
研究で分かっていることは、家畜化された動物はこの神経堤細胞の移動が非常に遅いか、減少するということだ。神経堤細胞が減少すると、家畜化のなかで最も表出する影響である攻撃性の低下が起こる。これは神経堤細胞の少なさが副腎に影響し、ホルモン産生率を減少させるからだとされる。ほかにも、神経堤細胞が少ないほど顎の発達が小さく鳴ったり、脳を成長させるたんぱく質の減少を引き起こして脳が小さくなるといわれる。
また、ネコに顕著だが、神経堤細胞の移動がゆっくりになると、メラノサイトという色素細胞が体の末端に行き届かず、顔の中心や脚の先端に白い斑点(星形変異)がよく現れる。
 
ロシアの生物学者であるベリャーエフによれば、家畜化症候群全体は、従順さ(反応的攻撃性の低さ)に引きずられて起こるという。家畜化する中で攻撃的な個体が抑制されると、前述の神経堤細胞の遊走が遅いか少ない個体が遺伝子を残し続け、結果として様々な家畜化症候群が発生するのだという。
 
つまり、人間も進化の過程のどこかで反応的攻撃性を抑え込まれ、その結果として顔が平たくなり、オスとメスの体格差が少なくなり、脳が小さくなったとされる。
 
では、問題が戻るが、ヒトガヒト自身を家畜化したとは、どういうことなのか?
 

●ボノボの自己家畜化


さきにボノボの自己家畜化がどのように起こったのか説明する。
87万5千年前、祖先を同じくするボノボとチンパンジーの分岐が起こる。これには、ゴリラというもうひとつの種の存在が関わってくる。
 
彼らの生きる土地はコンゴ川という川が走っており、だいたいその北西側にゴリラとチンパンジー、南東側にボノボが暮らしている。どうしてもチンパンジーはゴリラと食糧を競争する関係にある。彼らは食べ物を得るためには不安定な状況の中で戦わなければいけない。自然と攻撃的で強い個体が生き残り、遺伝子を残すことになる。弱い個体は淘汰される。
 
一方、ボノボの生きる土地にはゴリラがいない。食べ物を競う相手がおらず、生活は安定している。ボノボの集団の中心には常にメスの集団があり、オスの数よりもメスの数のほうが多い。攻撃的な個体一匹では、どうしても数には敵わない。すると攻撃的なオスは交尾の対象としてメスに選んでもらえなくなる。オスも、メスを攻撃したり食糧を奪ったりする必要がなくなる。攻撃性の高い個体が、チンパンジーとは逆の現象で淘汰されたのである。
これにより、ボノボは他の存在ではなく、ボノボ自身の影響で自己家畜化したとされる。
ここには交尾相手の選択という淘汰圧がかかった。
 
では、人間は人間自身に、どのような淘汰圧をかけたのか?
 

●処刑仮説


ホモ・サピエンスの発生は、早く見積もってだいたい50万年前だとされる。それから20万年経過したいまから30万年前頃から、徐々にヒトに家畜化症候群があらわれることが化石の調査からわかっている。
では、この30万年前から人類にもたらされた淘汰圧とはなんだったのか?
それ以前、たとえばネアンデルタール人には与えられなかったものは?
 
それは、反応的攻撃性を人間みずからが罰することである。
1861年、ダーウィンは「人間の進化と淘汰圧」という著書のなかで、神(宗教)を抜きにして人間の道徳性をどう説明すべきか述べた。
「暴力的で起こりやすい男たちは往々にして残酷な末路を迎える」
ダーウィン曰く、人間が家畜化されている以上、攻撃を好む「悪い資質(現代でいうDNA)」は淘汰されているはずだ。それは、利己的な性質を抑え込んだ結果のはずである。攻撃的で感情的になりやすい個体がどのように淘汰されたのか歴史を紐解けば、答えはすぐにわかる。処刑以外にない。
 
ほかにも、協調性をもった個体のほうが軍隊として優れているという「偏狭な利他主義仮説」があるが、これは文化的に引き起こされるものであって普遍性に欠ける。進化論での説明は難しい。
 
さらに、攻撃的、利己的な個体は群れから排除されるという「評価仮説」もある。これは有力な説である。しかし、問題がある。悪評に頓着しない者=暴君には効果がないという、「暴君の問題」が発生する。
 
悪評も気にせず、集団の利益よりも個の利益を優先する個体である暴君の問題を解決するにはどうすればいいのか。処刑以外にないのである。
 
1986年のキース・オターバインの説によれば、死刑とは「政治的共同体のなかで罪を犯した人物を適切に殺害すること」である。
死刑といえば、国家形成がなされた法治国家で執行されるイメージがあるが、死刑は人が住むすべての大陸でおこなわれ、とくにイヌイット、北米先住民、オーストラリアのアボリジニ、アフリカの狩猟採集民に多い。死刑は人間が小規模集団で暮らしていたころから伝統的に続く、普遍的な現象なのである。
 
特に、小規模社会では死刑はよく起こる。
小規模社会は自由で平等主義を重んじる。序列や支配階級は存在しない。
しかし、無政府状態ゆえに、告発と合意形成により簡単に死が生み出せる。これは文化の後進であることや人権教育の有無には関係がない。アウシュヴィッツ強制収容所などでは他者のパンを盗む者は殺された。これは「パンの法」と呼ばれ、収容されていた人によれば「道徳的規準と相互信頼の維持にとても役立った」という。

●死刑の発生


国家の死刑は王の専制の保護のためである。支配者に逆らう個人の排除が目的であり、権力構造の誇示のためにも用いられる。
 
一方、小規模社会の死刑は文化的ルール(男たちの専制によって生み出された道徳)に逆らう個人の排除である。小規模集団は平等主義を重んじる。そのため、独裁者になろうとする者は処刑し、社会の規範を保護しなければいけない(「いとこたちの専制」の保護)。
平等主義は、極端に攻撃的な個人が殺されることを内包しているのである。
 
小規模社会――たとえば狩猟採集民の社会は男性社会である。集団の中には男性たちで組織された「長老たち」がおり、ここに平等主義は集約されている。ただし、このなかにボスはいない。あくまでも男性たちは発言権においては平等であり、その権力を誇示しようとしない。誰もが自分の糧は自分で得なければならず、控えめな態度が尊ばれる。
これは謙遜を美とするからではない。「うぬぼれが強い人間ではないことを他者に示す」ことを続けなければ、集団から排除されることがわかっているからである。小集団内で私利を追求したり、主導権を握ったりしたがる者はすぐに抗議、侮辱、嘲笑、無視の的になる。それでも効果のない暴君にたいしては、孤立や追放、もしくは処刑しか残されていない。
 
狩猟採集民は平等でなければ集団として生きていくことはできず、ボス(暴君)の存在は社会的に容認できない。最終的な制裁(処刑)は非常に横暴な男さえ抑え込むことで、ふだんから支配欲が抑制された平等社会という特異な現象を支えているのである。
 

●処刑は人類の自己家畜化の鍵か?


処刑がいつから始まったのかを考えれば、それが自己家畜化の鍵であることがわかる。
処刑の始まりは、言語の進化の観点から推測できる。
 
なぜ、言語と処刑が関係するのか。それは、特定の個人を殺すためにはどうしても「共謀」が必要になるからである。そのためにはまず共謀の力の源である噂話なくては始まらない。噂話により特定の非常に暴力的な個人が力を失わない場合は、人々の頭に「逸脱者を殺す」という発想が浮かぶ。
 
このとき、ひとりでは無理である。返り討ちにあう危険性は、できるだけゼロにしなくてはいけない。そのためには、集団を結成する必要がある。集団は集まっただけでは不安定である。まずお互いに話し合いを行い、十分に信用しあうことが重要になってくる。自分は決して裏切らないということを互いに誓わなければ、計画が漏れ、逆に自分たちが殺されることになるからだ。足並みを乱すものは全員の意思決定により殺される、という合意が達成できたところで、ようやく集団は特定の個人を殺す。処刑ほど言語の必要な行為もない。
 
ヒトが言語を獲得したのは76万5千年前ごろとされる。これはネアンデルタール人とホモ・サピエンスが同一の祖先から分岐しはじめたころと一致する。
人類は50万年前から処刑を行ってきた。言語能力の進化した人類は、処刑を手に入れ、反応的攻撃性を弱めるにいたった。つまり、人間を自己家畜化した淘汰圧とは、言語から始まる集団による攻撃――「協同」による処刑だったのである。
 
人間が寛容で温厚であり、平和的な性格をもつ動物であることの理由がわかった。
しかし、重要な点はここではない。
問題は、なぜ人間が「善と悪のパラドックス」を持つかだ。
 
処刑により反応的攻撃性を抑制された人間は、どうして平和的な反面、恐ろしいほどまでに残酷になれるのか。
 
それは、言語発達により生み出された「処刑」ともうひとつの産物である「協同」の力が関わって来る。
 

●協調性の発達


ネアンデルタール人とホモ・サピエンスのうち、生き残ったのは現人類であるホモ・サピエンスだった。では、その闘争にはどのような勝因があったのだろうか。
 
よく誤解されるが、知性はどちらもそう変わらず、ややネアンデルタール人のほうが低いかといわれるほどである。体格差に関していえばネアンデルタール人の勝利である。ホモ・サピエンスは進化の過程で幼形形態形成(ペドモルフォーシス)が発生している。これは家畜化された種に見られる特徴で、野生種の祖先と比べて成長が遅く、早い段階で成長が止まる。これによりホモ・サピエンスはネアンデルタール人と比べて体が小さくなる。ペドモルフォーシスは成体にも子供と同様の特徴をもたらす――そのひとつが同性愛であり、遊び好きな性質であり、恐怖に対処する反応が強くなる年齢の変化である。子供の時代はどの種の子供も恐怖心をもたない。母親に守り、母親が付き合うべきではない相手を選んでくれるため、信頼できない他者へ向ける恐怖心というものをもたなくて済むのだ。母親の保護から離れたとき、はじめて子供は恐怖心を抱き、大人に成長していく。こうして「社会化の窓」は閉ざされ、野生種は脳内にHPA系とSAM系と呼ばれるストレスシステムを成熟させていくが、家畜化された種ではこの「社会化の窓」の期間が延長されることがわかっている。また、子供時代は恐怖心を高めるHPA系のコルチゾールや攻撃性を高めるSAM系のアドレナリン、ノルアドレナリンの分泌が低下する。加えて、幸福物質として知られるセロトニン系の分泌が多い。
 
こうした結果、自己家畜化された人間にもたらされたのが、恐怖心をもたずに他者と関わり協力しあっていく「協調性」だった。出土する道具を調べてみると、そのことがわかる。ネアンデルタール人は多くの道具を作ったが、それはホモ・サピエンスほどに複雑な製法のものではなかった。ホモ・サピエンスは複雑な道具を共同でつくりあげ、その製法を高いコミュニケーション能力で共有し、ネアンデルタール人に勝る技術を手に入れたのである。
ネアンデルタール人が敗退したのは、知性でも体格でもなく、協調性だったのだ。
 
家畜化は協調的コミュニケーションの能力を副産物としてもたらした。
処刑による反応的攻撃性の低下はついでに恐怖心をおさえ、相手のシグナルをよく観察するように進化を促した。相手がなにを伝えたがっているのかを恐怖を取り除いてみることで、社会的な理解力の向上につながり、感情のシステムの変化をもたらしたのだ。これは知性の向上ではないし、理性の高まりでもない。あくまでも、感情を構築するシステム(HPA系、SAM系、セロトニン系)が変化しただけの話だ。
 
コミュニケーションの能力の発達は、たしかに喜ばしいことである。協同で作業にあたることで、ひとりでは作りえないものを作ることは人間の可能性を広げる。しかしその反面、予測不可能な事態も訪れる。集団を保とうと考えたとき、そこには善悪の基準が必要となる。
道徳の発生である。

●善と悪の進化


ヒトはなぜ道徳的感情を強くもつようになったのか。どのようにして、善と悪をみわけるようになったのか。
 
その答えは、集団内の仲間の殺傷能力(処刑)を怖れるように進化したからである。平等主義の社会において、暴君たろうとする者はすぐに処刑される。少しでもその兆しを見せれば、集団は協同でその者を排除しようと準備を始める。この平等主義を守ろうという意識が道徳である。そして、道徳の枠内で行われる行為を善と呼び、枠外で行われる行為を悪と呼ぶ。
ここでいう道徳的な善とは自制であるともいえる。
 
だから、集団内では寛容かつ平和に生きる人間が、集団外との戦闘になったときに、残酷なまでに計画的に殺しを行うのは、当然のことである。それはどちらも道徳的には善に分類されることなのだ。悪行も、集団の内側へ向かえば悪となるが、外側へ向かえば善である。ほとんどの暴力は道徳的感情が動機となる。集団内の平和を守るために他の集団を攻撃する。もしくは、臆病者という道徳的悪のレッテルを貼られないために。
 

●自己犠牲・無意識バイアスの説明・介入


協力・協調性という進化は素晴らしいものである。それがのけ者や部外者を生み、死に至らしめるという点に目を瞑れば、だが。
これらの性質はどのように発達したのかを考えると、まず挙げられるのは攻撃性の低下だろう。それに加えて、他者への親切心――向社会性も重要になってくる。
なぜ、人は他者に親切にするのか?
人間が他者に親切にするのは、多くの場合は自己利益のためだ。たとえば血縁関係にある者をすすんで助ける「血縁選択」、お返しに助けてくれるパートナーへの投資である「共生」のふたつがある。ただし、「見返り」という言葉では説明のつかない行動もある。それが「自己犠牲」の行動である。たとえば、道端に落ちている財布を人は勝手にポケットに仕舞わないし、誰も見ていないからといって畑から野菜を好き放題盗んでいくこともしない。また、二度と会うことのない他者に親切にすることもある。これらも広くみれば自己利益を重視しない自己犠牲の行動である。さらには、命を捨ててまで誰かを助けるという純粋な自己犠牲の例もある。
ここまでいくと、もはや生物学的な報酬の理論では向社会性行動の説明がつかなくなる。では、自己犠牲まで犯すほどの協調性の高さは、いったいなんなのか?
知性のためか? それとも、幼少期からの躾か?
これらはもしかすると、生得的なものかもしれない。人間にはそもそも、他者のために身を投げうつという性質が備わっているのかもしれない。
ここにもまた、言語の獲得から始まる自己家畜化の影響がある。
 
人間が道徳的な判断を行うのは、実は無意識の行動のあとである。矛盾するが、人間はまず無意識である行動を行い(行わず)それについて後付けの説明として道徳を用いる。
①「不作為バイアス」人は何かするよりも、何もしないほうを選ぶ。
②「副作用バイアス」主要な目標が故意に副作用的な害をもたらさないよう動く。
③「接触バイアス」大抵の人は危害を加えられている人に触れるのを避ける行動をとる。
これらの無意識下のバイアスの行動のあとに、「それが道徳的な行いだからだ」と自分を納得させる説明を作り上げる。
 
さらに、もうひとつの疑問である。どうして人は時折他者にも道徳に従うよう介入し、ときに処罰まで行うのだろうか。
それはやはり、道徳があるからだ。
たとえばチンパンジーはよく子殺しを行う。この殺しの最中に制止は入るが、行為のあとで処罰されることはない。人間は違う。殺しの最中に制止されずとも、処罰はあとで必ず受ける。これは人間にのみ、善悪の決定的な違いを判断する社会規範があるからだ。だから、チンパンジーは介入せず、ヒトは介入する。
 
ここまでのことをまとめると、三つの疑問が現れる。
なぜ、ヒトは自己犠牲を払うほどの向社会性を持つのか? 
なぜ、何かに導かれて善悪の判断をするのか?
なぜ、悪事を目撃すると介入(処罰)するほど気にかけてしまうのか?
 
2012年にクリストファー・ボームはこう述べている。
 
「集団内で平等主義が強まると、ボスは支配力を慎重に抑制するようになった……やがて良心の原型が芽生え、恐怖にもとづく自制心が人類の祖先に広まったのだろう」
 
「団結による能動的攻撃性を用いる最初の段階では、下位の者たちの力は、支配的な男を制御する反権力行為に利用されたに過ぎなかった」
 
「次の段階は、道徳的感受性の進化にとって重要だった。身体的に強いボスを殺す能力を発達させるうちに、下位の男たちは一致団結の力……協力して人を殺すという圧倒的な力を発見した。」
 
この協同の力が、暴君(トラブルメーカー)に向かっているうちはまだよかった。
これらの力はやがて、小規模集団のうち下位の存在や、集団に不服従な者にも向けられた。
 
ここでいう集団とは、30万年前、処刑の導入により一致団結した男性たちがつくりあげた「家父長制」という成人男性たちが自分たちに共通する利益を守るためのネットワークである。「権力は腐敗しやすく、絶対的権力は絶対に腐敗する」というように、この協同の力はすべての下位の存在に圧力となる。
 
この制度の下では誰もがはみ出し者となるリスクを抱えており、だからこそ、そのリスクを最小化する個人として振る舞う必要が生じた。そのためにはどんな行動が「善」で、どんな行動が「悪」なのか心得なければすぐさま命とりとなる。暴君が処刑により淘汰されてきたように、今度は「善と悪」(道徳=集団内の基準)を理解できた人々だけが進化上、生き残ってきたのである。
 
そう考えると、前述の疑問はすべて解消される。
「なぜ人間は自己犠牲を選ぶのか?」
自発的な態度で寛容さや友好的な態度を示す方が身を守ることに繋がる。また、見返りも大きいと期待される。
「なぜ無意識のバイアスに導かれて道徳的な行いをするのか?」
非難を避けるための自助のメカニズム。実際に何をしたかよりも、周りに何をしたと思われているかのほうが重要である。良心とは良いことを心掛けることではない。「誰かに見られているかもしれないと警告する内なる声」である。
自衛のメカニズム=自分がこれから行うことが道徳(集団内での善悪基準)的に不適切な行為に分類されないか、事前に検討するのが良心である。
「なぜ悪事を見かけると介入したくなるのか、処罰するのか?」
善悪に敏感になることで、集団が容易に行う処刑から身を守ることができる。悪(非協力者として)断罪されるリスクを回避するためには、常日頃から悪について敏感でなければならない。
 
また、恥や気まずさ、罪悪感や疎外感などは人間のみが感じる苦痛である。これらは何が善で何が悪であるかを自分で把握するために役に立つ。善悪の基準を身に付けるための進化した仕組みであり、「規範心理」とよばれる。目に見えない規範に対処するための認知メカニズムと動機と気質である。さらに、これらを表明することで共同体に許しを乞う。
 

●まとめ


まとめると、道徳の起源は、意外と邪悪である。
処刑による暴君政治の終わりは、男性連合の絶対権力に変わった。
男たちの専制は道徳という公正さと保護――そして拘束を生んだのである。
 
これこそ、人間がある面では寛容でありながら、ある面では残忍な怪物である二面性――「善と悪のパラドックス」の根本となるものである。言語の発達は処刑を生み、処刑という能動的攻撃性は、反応的攻撃性を抑制した。ついで、男たちの集団は道徳の善悪の基準を用いて、共通利益の共同体を守ろうとした――裏をかえせば、基準を守らないものを残酷に殺し、排除してきた。その過程で人間が発達させてきたのが道徳心と呼ばれるものであるのだが、これはある意味では、「基準に満たないものを殺す」社会システムのなかで生き残るための適応だったともいえる。自己家畜化は人間を野生種と比べて非常に温厚な動物に変えたが、一方では、協同の能力をもたらしたことでよりいっそう恐ろしい能動的攻撃性を与えたともいえる。



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