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詩について(4)


物には、詩がある。


詩とは言語の芸術表現のように思われるだろうが、実のところ「詩それ自体」は言語の前のところにある。(※詳しくは、詩について(1)の記事を参照していただければと思います。)

それを僕は「表現(express)の詩」に対して、「印象(impress)の詩」と呼んでいる。印象の詩とは、僕たちが世界を認識する、境界のところに発生する「詩情性(ポエジィ)」のことで、その詩情の源泉は、物、物質の世界にある。言語の階層の前にある物、物質の世界が、詩を醸(かも)している。

だから、詩とは言葉の前の、物の中に潜んでいる。と思っている。言語での詩表現とは仮象のようなもので、「詩それ自体」「詩の本性」とは、生来的には物の世界に属しているものだと僕は思っているのだ。(僕は眼が見えるので、眼に映る、静止し沈黙した物達や、物達が構成する風景から詩を感じることが多いのだが、しかし眼が見えなければ、もしかしたらこんな風に物から詩を感じることもなかったのかも知れない。だから、この話は眼の見える人に限った話になってしまうのかも知れない。どうだろうか。解らない。)

そして、物や風景と人との間で発生するものが「詩」「詩情」であり、それは、えも言われぬ、享楽めいた感覚を人にもたらす。

僕は古道具を集めるのが好きで、物のなかに特別に詩を観てしまう、観てしまっているのかもしれない。むしろ言語作品としての詩を鑑賞するよりも、物の中にこそ詩を強く感じている気さえする。

自宅からそう遠くない街に、茂 | 呂という馴染みの古道具屋があって、そこで「物の詩」をひとしきり味わって、そのうちの一点、二点を買って帰っている。例えば、古いクレイパイプの残欠、枯れた紙や焼けた紙、セルロイドの箱、簡素な飛行機の模型、etc...。そして持ち帰った物を部屋に飾る。棚の空白に並べたり、壁に架けたり。そうして日々、物の醸(かも)す「詩」を味わっては享楽を感じ生活している。この生活は実に喜びに満ちている。


多くの物たちは「詩」を帯びている。

そして多くの物から「詩」が溢れている。


浅学のため深くは理解してはいないけれど、物に詩を感ずる時というのは、その実カントの言う、「物自体」のようなもの、つまり「不可知の真実在」、「本体」のようなものが、物を通して投射されているように感じられてならない。

もちろん、すべての物が詩を宿しているわけではない。

物に詩を感じる時、まず物には、物そのものの物質としての強さというのがなければならないと思う。その強さとは単純に言えば嘘偽りのなさである。作為的な物には詩は感じない。無作為な物に限る。古道具について言えば、時代を経て、時の流れと空気が沁(し)み込み、それでも残った物、残ってしまった物のもつ徒然とした佇まい、発する雰囲気、アウラのようなもの。それがそうでしかあり得ないような姿をしている物。そういう雰囲気を帯びた物の姿が僕に詩を喚起する。

また、そうかと思えば、その物が置かれる背景、状況などの偶発的な重なりによって何でもない物、量産品が詩的に輝く瞬間がある。例えば、僕が強烈に詩を感じてしまうのが、コンビニやスーパーのレジ袋が、曇り空の下を舞い飛ぶ姿。そこに詩と芸術的な美を感じてしまったりする。顔の見えない誰かが作った、取るに足らない何でもない人工物が、くすんだ空の下を浮浪する姿。この光景に僕は強く詩を感じる。その匿名の人工物に、エクリチュール(書き言葉、文字)の気配を感じているようにも思う。地と図の偶発的な関係で、ふいに詩的に輝く何でもない物がある。


だから、古い、新しいというのは実のところ関係が無いのだろう。そこに作為が無ければ詩、詩情が発生する。このように「物」を通して「詩」を感じる時、おそらく、前述したように「物自体」というような、不可知のものに恐らくだが接触している感じが確かにするのだ。錯覚かも知れないが、真実とは物の中に潜んでいて、詩とはそれが漏れ出る瞬間のように思われてならないのだ。同様に、言語表現化された詩作品に、強く詩情を感じる時というのは、そういう不可知の、何か、「物自体」というような真実在めいたものをやはり感じているように思われる。だから、言語表現の詩は意味の外側にある。無意味・意味不明に思われる詩作品が内包・受胎しているのは意味では決してなくて、真実在の類である。恐らく。


俳人、小津夜景さんの漢詩にまつわるエッセイ、「カモメの日の読書」の中で、ロジェ・カイヨワの石についての文章が引用されていた。孫引きになってしまい恐縮だが、引用したい。

「私は石が、その冷やかな、永遠の塊りの中に、物質に可能な変容の総体を、何ものも、感受性、知性、想像力さえも排除することなく含みもっていることに気づきつつあった。と同時に、絶対的な唖者である石は私には、書物を蔑視し、時間を超えるひとつの伝言を差し出しているように思われるのだった」ー ロジェ・カイヨワ「旅路の果てに アルペイオスの流れ」金井裕訳、法政大学出版局

カイヨワの言う、石とは、物、つまり詩を発する物という存在にも置き換えられるように感じられる。絶対的な唖者としての物。ひとつの伝言を差し出す物。その伝言とは詩である。言葉ならざる言葉を伝言する。


また、梶井基次郎の「檸檬」における檸檬にこそ、僕は詩の正体を見ている。あの作品の中で病んだ主人公が偏愛的に檸檬に興じる様は、まさしく僕が物の中の詩を愛でる様そのものである。街を彷徨い、八百屋で買ったひとつの檸檬に真実めいたものを見出し、妄想・空想的に遊ぶ姿。物そのものを鑑賞するに止(とど)まらず、終(つい)には、空想の爆弾として檸檬で遊び、小話が完結するこの観念上の遊戯は、詩、詩情の快楽・享楽を強烈に感じさせる。檸檬爆弾のような遊びにこそ詩と、文学と、芸術の想像と創造のゆたかさを観る。


物とは、もしかすると詩作品以上に、啞したままに「詩」を伝言するものなのかも知れない。

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