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山根晋個展「石 ishi / 見えるものによって見えないものが見えてきて、見えないものによって見えるものが見えてくる。」


写真:山根晋 / Shin Yamane

友人のアーティスト、山根晋の展示「石 ishi / 見えるものによって見えないものが見えてきて、見えないものによって見えるものが見えてくる。」を観る。波打ち際の石の姿を遷した、モノクロの写真作品群。 (彼のテキスト、ステイトメントの中において、「写す、撮す」は遷移の「遷す」であった。)天と地のあわい、海と陸の境、潮は満ち引き寄せては返す。その、豊穣な含意を帯びたある完全な境界で、浜辺の石は、石たちは即座に濡れては即座に乾き、泡立つ。浜辺の砂は粒子の細かいスポンジケーキのような、柔らかでふかふかなクッションのようにも見える。それが石をふっくらと慈愛を持つかのように包んでいる。石は沈黙した絶対的な唖者(ロジェ・カイヨワの言うような)として、この世界に完全な塊として存在している。が、しかし、この作品に於いては、海辺で泡立つ石が、ゆたかな声を発していた。そして、彼はそれを写真に遷した。非生命のはずの石が、あたかも柔らかな意志を声として発するかのように、自分には映った。

写真:山根晋 / Shin Yamane

これはひとつの東洋的な表現として、自分には、ある完全な象徴性をもって感じられたのだった。つまり、陰陽論、アニミズム、仏教思想的なものがここに強く現れていた。(そして、作家に象徴の意図は特段なく。)この作品群は、この世界のすべてのあわいにあるように自分には感じられたのだ。天と地、海と陸、潮の満ち引き、石の沈黙と声、生命と非生命、そしてモノクローム。仙崖の禅画に◯△□の作品があり、鈴木大拙はそれを宇宙を表していると言ったが、それと同じスケールのものを彼の作品群に感じた。または、空(うつ)と現(うつつ)を移(うつ)しているとも言えたり。色即是空、空即是色というものであろうか。つまり日本的な霊性というものがここには露出している。


あるいは、表題で、ishiとローマ字表記するように、いしには、日本語の多様な概念が織り込まれていて、石、意志・意思の他に、遺子(親の死後に残された子)や遺址(建物や城の残り)とか、移徙(移り動くこと)、美(い)しも含まれているのかもしれない。(このあたりは鑑賞者である自分の邪推、飛躍した連想であるが。)そして、突拍子もないが、彼は巫覡、巫者的であると思う。つまりある霊媒的な何か、能力をもっている。といってそれはスピリチュアルというカタカナ語ではなく、霊性を露出させる力をもっているというか。しかし別に、振れておらず冷静で柔和でさえある。つまるところは、芸術家というのは、そういう能力を有する人種のように思える。


写真:山根晋 / Shin Yamane

ただ、彼が冷静にそれを露出させ得るのは、彼がカメラという機械をオートマティックに扱い、それによって現象を遷し、作品として剪定、選択する時の判断として、巫者としての感覚が発露しているからのようにも思う。邪推かもしれないが、もしかすると彼が直接に身体表現を行った場合、つまり絵を描いたり、舞踏した場合、おそらく、アンリ・ミショーや土方巽のような危うい水域の美を扱うのではないか、というような感覚がどこかある。(ミショーはメスカリンを使って深淵をドローイングとして描いた。そこには精霊的で無い、何か威力をもったものが描出されている。)つまり、カメラという無機物、機械を通して”何か”を露出させる方法を選択しているのは、自己の能力を制御するためなのかもしれないとも邪推された。(それぐらいに彼は、僕からすると感覚が世界に対して開きすぎている。あちらを引き摺り出すことができてしまうというか。)

海水に濡れた泡立った石、唖者であるはずの沈黙する石が僕にそんなことを思わせた。存在論的な思索をすすめてくれた強い作品だった。


写真作品:山根 晋 / Shin Yamane


山根晋個展
「石 ishi / 見えるものによって見えないものが見えてきて、見えないものによって見えるものが見えてくる。」
会期:2024年6月7日(金)~6月9日(日)
会場:GOTTA


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