絵について
「絵」とは、イメージを観るもの、以前はそんな風に思っていた。
しかし、「絵を観る」とは、絵という物体そのものをまなざすこと、それによって身体感覚が変容することなのだ、と最近では思っている。
仕事でグラフィックデザインをしていると、「絵」とは何かの象徴であり、大体いつも何かを伝達するための"用"を帯びる。例えばロゴマークデザインの場合、クライアントの理念や想い、コンセプトを象徴化して、シンボルマークをつくったり、ターゲットとして想定した人々にとって、好ましく映るだろうニュアンスを正確に帯びたロゴタイプ(文字)を起こす。そのとき、デザインは、「絵」というよりも図像、図としての役割が強く、それを受信する人の心象に好ましいイメージを立ち上げるように図像設計がなされる。グラフィックデザインはその図案を観る人にどういう心的イメージを抱かせるか、そこに重心があり、ゴールは受け手の心象までの設計という感じがする。
図案、図は広義には「絵」とも言えるが、図案には図案としての役割と機能があり、「絵」には、「絵」と呼称されるだけの、やはり「絵画」としての独特な概念領域があるという感じがする。「絵」というものが純粋芸術の代表とされるには、やはり並々ならぬ理由があると思う。広義としての絵ではなく、狭義の、芸術作品としての絵には、特別な機能がある。英語では絵は、picture,painting,drawing,sketch,illustration等、それぞれ、役割や技法によって、分別されるが、pictureは図像や写真も含み、sketchには下絵的なニュアンスがあり、illustrationは挿絵であるので、ここでは、paintingやdrawingを主に、「絵」と定義したい。つまり芸術作品としての「絵」である。(誤解が無いように言っておくが、これらの優劣について述べているわけでは無く、それぞれに役割と機能があり、ここでは芸術としての「絵」というものがもつ、ある種、魅惑的な機能を述べたいと思っている。図案ではなく「絵」とは何なのか、という僕の所見を語っている。)
僕の現在での定義になるが、「絵」とは、"二次〜三次平面における、物質の光と影、色、形状の大小等が、筆致の有無によって表された、外在化されたひとつの「身体」である"と、このように思っている。そして、「絵」とは、鑑賞者に、その眼差しから身体感覚の変容を促すひとつの装置として働く、とこのように思われる。
それは、描かれたものが何を意味するかを観るもの、象徴や心象を観るものでは無くて、表面のマテリアルをまなざすことで誘発される身体感覚、またそこから派生する精神の運動を味わうものと言えるだろうか。絵が何を意味するかを観ているのでは、記号を視ているのでしかなく、それは図の役割の範疇といえる。絵は身体を啓き精神を攪拌する。
最近、伊藤亜沙さんの「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」(講談社学術文庫)を読んでいるが、それによれば詩というものは、何かといえば、"純化された言葉、文によって、身体感覚の変容を誘う装置"といえる。
この点に関して言えば、作品として成立した、芸術作品としての「絵」は、ひとつの「詩」であるとも言える。しかし、「詩」と「絵」が異なるのは、「詩」は、文と声による表現であり、「絵」は絵具などの素材で、二次〜三次的、画面として表現された物質であるということだ。それは外在化、物質化されたひとつの身体である。書かれた詩は読むこと、つまり視覚的かつ聴覚的に、文として身体を啓く装置であるが、絵とはまなざすことで、視覚から身体を啓く装置であると言える。
絵そのもの、表面の物質そのものを視ることで、身体感覚が啓き、精神が変容する。それはある意味では、石をじっと観ることに近いのかもしれない。石は沈黙しているが、仔細に見つめれば様々な感覚を引き起こす。
しかし、石は自然物であって絵ではない。(この場合、立体なので彫刻でないと言うのが正確だろうか。)そして、無機物であり、永久に沈黙を貫いている。絵というのは、人間の営為であり、自然物とは異なるものである。人間の作為が絵をつくる。
けれど、優れた芸術作品の絵には作為が見えない。作品としての絵は、初めからそこにあったかのように自立・自律しているかのようだ。とても作られたとは思えず、人為ながらも、あたかも自然な振る舞いをしている。沈黙しながら絵は激しい。そして、当然に作者がいるが、作者の顔が見えず、作品がそのものとして存在し、眼を刺してくる。まるで他者のようにそこに只、あり、確かに、念が込もっている。
絵、それは、まなざすことで、身体を啓く、作られたひとつの物質である。
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