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アイデンティティの在りか


最近こんな話をした。


「インターナショナルスクールに通っている子のアイデンティティって、よく分からなくなっていると思う」


考えたこともなかった視点だ。


自分は言語を勉強してきたが、言語習得の先には、日本人として、そして自分というアイデンティティの中に幾つかのツールとして多言語が存在していた。

しかし、小さい頃から日本でインターナショナルスクールに通う子ども達はどうだろうか。


そもそもインターナショナルスクールというのは、主に日本人ではない先生が英語で日本語の授業をするところが多い。それは、中学、高校という年代でも同じだ。教科は増えるが、例えば歴史の授業等においても、先生独自の授業方針で進められる。


教材がアメリカで使われているものならば、日本史の勉強というよりかは、アメリカ近代史や、アメリカから見た歴史の動き等に重点が置かれることになる。


日本では、両親の「英語を話せるようにさせたい」という想いの元、インターナショナルスクールに通わせることが多いが、そこでの子どものアイデンティティの形成を理解しているのだろうかという考えに至った。


クラスメートには色んなルーツの子がいたり、先生も日本の学校に比べると個性に溢れる人達ばかりだ。

確かにそこで、学習するということは、言語を習得できるという利点に加えて、今日本が訴えかけている、多文化共生であったり、多様性を受け入れようという試みは成功しているのかもしれない。



この話になったキッカケは対話相手の知り合いのお子様が、インターナショナルスクールに通っているという話からだった。

実際その子は、高校生になり、

「日本で働きたくない」

「でもアメリカも何か違う」

といったように、

自分が何をしたいのか、話せる言語使ってどうしたいのか、

分からない状態になっていたという。


これは、その子自身がただ単に「何をしたいか分からない」と将来について悩んでいるだけではなく、

自身のアイデンティとの葛藤を意味しているのではないかと個人的に思った。



自分たちはいつの間にかアイデンティティが確立していることが多い。


日本語より、英語の歌が好きだとか、

洋画より、邦画の方が好きだとか、

日本の文化より、こっちの文化の方が性に合うとか、


これらは、自分の話せる言語とは関係なしに、

気持ちからくる、その人の個性である。



家庭は、そこまで向き合ってあげてほしいなと、思った。

英語が話せたら、その分将来の可能性や、選択肢が増えるというのは、

親が決めることではなく、その子自身が決めることなのだ。


自分の気持ちが分からないと悩む子どものサポートとして、一番大事なのは、ハイレベルな学習環境を作ることではなく、


その子の今できることから、

その他のできることを見せてあげたり、

興味のあることから、

派生してこんなものも好きそうだと、


色んなものを見せてあげることではないだろうか。






p.s


幼少期にしたかった習い事第一位は、習字です。




文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.