「ザ・ホエール」ー依存と救済ー
「ザ・ホエール」を観てきました。映画開始数分のシーンから何度も泣き、そしてラストでは文字通りの意味で嗚咽してしまいました。
本稿は、なぜここまで自分がこの映画に胸を打たれたのか、考えをまとめる手控えとして、そして同時に、鑑賞を迷っている方へのメッセージとして記すものです。
特殊からの普遍
ひとつの原則
陳腐な、しかし否定し得ない原則として、
「徹底的に個の存在と物語を掘り下げることで、人類に通底する問題やその回答の一つに突き当たる」と言えるでしょう。
本作はまさにこの原則を見事に達成したことから、最大限の評価を与えられるべき傑作であると考えます。
本作が提示する特殊と普遍
常軌を逸した肥満の男が、そのアパートの一室で死に瀕した最後の数日を過ごす。そこに訪れる登場人物は4人(多く数えても5人)のみ。物語も、徹頭徹尾、彼の過去と現在をめぐる話にクローズアップされます。
しかし、上映開始後すぐに気づかされるのは、人間が陥る孤独とそれゆえの依存(主役の男の異常な肥満体)、さらには、知性やそれに基づく高尚な理念と、これに対して人間が持つ虚栄心や臆病さ(含蓄のある講義メッセージ、自らの姿を隠す振る舞い)という、人が目をそむけたくなるような、だけれど人の中に潜む真実です。
そして物語が進むにつれて、彼がなぜここまで自らを責めそして絶望に沈んだのか、彼が最期に何を望むのかが明らかになります。犯した罪による自己嫌悪、贖罪への渇望、その自己中心性への気付き、しかし抑えきれない愛。鑑賞者はここでもまた、人間存在の核心へと導かれるのであり、それが故に、アメリカの片田舎のアパートメントの一室で喘ぐ、瀕死の「おぞましい」肥満の男と自分を重ね合わせてしまうのです。
二つの依存ー物質から人間へー
それでは、どのような描写あるいはテーマが、とりわけ私の胸に響いたのか、あるいはこの映画の優れた点として考えられるのか。上の総論的な内容からさらに進んで掘り下げていきたいと思います(残念ながら、問題の限定に対して私の主観と感動が基準として作用する以上、興味深い論点の数々については捨象せざるを得ません。キリスト教における救済や、『白鯨』というテクストについて提示あるいは示唆される読解の内容、さらには男自身が述べる文章の推敲と人間関係における正直さの要請の関係など)。
物質依存
本作では、物質依存に苦しむ当事者とそれに直面した他者の振る舞い、が一つのテーマとして提示されているように思います。この描写が、登場人物の個性を掘り下げ、リアリティある物語を作る土台として機能していると感じました。
男は明らかに、糖質・脂質への病的依存に苦しんでいます。序盤(おそらく火曜日)でも、彼がそれを自覚していること、そして娘との再会という希望からその習慣を絶とうと試みる様子が見てとれます。
物質依存に苦しむのは、男だけではありません。彼の元妻も、娘の証言および男と二人で話すときの振る舞いからして、おそらくアルコール依存症に苦しんでいます(元妻が酒を求めるとき、彼女の病的振る舞いを分かっていながらも、男が酒瓶の場所を教えるシーンは印象的でした。何か指導や改善要求など出来るような立派な人間ではない、という自覚にとどまらず、依存に苦しむ者であるからこその暗い共感と同情を、私は読み込みました)。
さらには、娘、そして出奔してきたキリスト者(カルトと非難されますが)の青年の男性についても、大麻の問題が顔を覗かせるというわけです。
他者への依存ー物質依存を皮切りにー
それでは、主要な登場人物の残り一人、看護師の女性はどうでしょうか?彼女はたしかに喫煙習慣が描かれますが、病的かというと否定されます(むしろ酸素吸入に際して元妻の喫煙を注意するシーンで、異常な愛煙家ではないことが描かれるのです)。
しかし、彼女もまた、物質依存に関わる人間であることが明らかです。彼女は男を献身的に看護する身ですが、しかし、男の糖質・脂質依存のイネイブラーであることが徹頭徹尾描かれます(発作で死にかけた直後の男にケンタッキーを渡す、彼が好むようなハイカロリーのサンドイッチを作る、など)。
そして、このようにイネイブラーとして位置づけられる彼女を通じて、物語は飛翔を遂げます。物質依存という生身の個性ある人間の問題から、他者への依存という普遍的な問題へと繋げる、物語の核となる人物は彼女であると私は解釈しました。
人間と人間の関わり。どうしても関わってしまい、深く結びついて離れがたくなってしまい、そして傷つけてしまうという、他者への依存の問題が、本作では見事に提示されるのです。
男自身がこの問題を明示します。「人はどうしても他者が気になってしまうものなんだ」と彼が述べますが、この印象的な、しかし一般的な命題が陳腐に聞こえないのは何故か、いかなる描写がこのテーマの提示を観客の胸に響かせるか、という問いへの私の答えが、これまでの記述である、と言ってもいいでしょう。
人間の関わりへの洞察
本稿の見るところ、物質依存から他者への依存が提示され、物語がこの描写の連続と発展により見事に紡がれているとして、しかし次に問題になるのは、この人間の関わり合いという主題をどれだけ深く描けるか、という点でしょう。この観点からも、本作は重層的かつ多面的な素晴らしい描写に到ったと、私は考えています。
深く関わるときの意図と帰結の不一致
人間が人間に働きかけるとき、その主観的意図と客観的帰結が食い違うことがあり得る、それを我々はどう評価すべきか、という一般的な問題があると思います。この論点について、本作は重要な例を三つ示すことで取り組んでいます。さらには、その関わり合いから思いがけない幸福への道が開けるのではないか、と示唆する点が、本作が名作である理由の一つではと思う次第です。
様々な不一致
第一に挙げられるのは、看護師のイネイブリングでしょう。イネイブリングのイネイブリングたる所以ですが、彼女が行った、(兄のパートナーだった)男の深い絶望に寄り添ってしまうが故の食事の提供や身の回りの世話は、間違いなく、彼の死に結びついています。
第二に、娘の振る舞いが邪悪な意図によるものなのか、あるいは他者を想っているのか、ここをめぐって男と元妻は激論を闘わせます(この両者の対立は、離婚した元夫婦が子の養育に携わる在り方という論点にも繋がるので興味深いのですが、それはさておき)。男は死を控えて(そして彼女のエッセイに胸打たれた人間として)娘を肯定したいと考えるところ、彼がやや曲解とも思える評価を下したのが、娘の通報により思いがけない展開でキリスト者の青年が故郷に帰れることとなった件でした。娘の意図が青年を救うことだったか、直接は描かれないので推測あるいは解釈となりますが、これはおそらく彼女の母も指摘するように、悪意に基づくものだったでしょう。それでも結果として、一人の人間が救われました。
しかし第三に、まさにこの青年が行っていたことですが、ある信条に基づいて他者を救いたいという意図でなす伝道が、決定的に男を傷つけました。彼からすれば、他でもないキリスト教(とくに終末論を謳うカルト)によって、最愛の男性が死に到ったわけです(この死に、男がどのように関与したかは、看護師との会話の中でちらりと言及されますが詳細には語られません。私の勘違いかもしれませんが、彼は拒食症によって死に到ったのでしょうか?となると、男の病的な食事はますます深刻な描写として鑑賞者に迫ってきます)。
不一致は直ちに不幸を意味するか?その両義性
しかし、上述のように三つの食い違いは、そのどれもが両義性を持ちました。看護師のイネイブリングは、男の死期を早めましたが、二人の深い絆と男の感謝は言うまでもありません。娘の通報は、先述の通り青年を救いました。そして、これら二つと異なり、残酷かつ純粋な善意から出た伝道は男を激昂させました。
これらの描写は、人間と人間が否応なしに関わり合うとき、深く関われば関わるほど、内心の意図と異なる結果が生まれる悲劇や喜劇があることを正面から受け止め、その上で、しかしその結果が人間を傷つけもすれば救いもするというさらなる複雑性をよく示しています。
凝縮としてのラストシーン
言葉を失うラストシーン、娘が出会った当初に言っていた(父への発奮を促す趣旨もあれば、挑発でもあった)自分の足で歩いて来いという呼びかけに、彼は応えます。やや攻撃的でもあった言葉に、しかし救いがそこにあると感じる男を、ただの勘違い野郎などと批判することはできません。
そして、その必死の歩みが、娘の精神を震わせて彼女からの明示的な歩み寄り(それまでの描写が彼女の昏い一面を描くからこそ感動的でした)を招いたのです。何か人間が深く関わるとき、その意図や帰結は思いがけない方向へと進み、そのように関わるからこそ、両者は傷つくだけではなく救われもするのだ、というメッセージを受け止めるラストでした。
この人間存在とその関係への洞察が、鑑賞後の感動を支えているように思います。
補論:皮相的な関係が招く悲劇の描写
以上の考察ですでに本作の優れた点を説明しましたが、これらの描写が説得力を有するのは、本作が用意周到にも、異なる深さでの人間の関わりにも言及しているからにほかなりません。
人間は人間と関わるといっても、単に皮相的に関わって終わりにしてしまう、他者を誤解あるいは遠ざけたり、もしくは消費してしまうことが多々あります。
その象徴として語られているのが、オンライン授業の学生たちでしょう(おそらく友人や家族にシェアするための盗撮)。そして、ならばオンラインのみが悪かと言えば、ピザを配達する男性もまた、(おそらく善意の)歩み寄りが人を傷つけて惨めにさせてしまうことの一例として描かれます。
このように、オンライン・オフラインを問わず人間の皮相的な関係もあり得る、と提示することで、一人の男の人生に深く深く根差してしまった人間たちの相互関係がより鮮明に描写されている、と受け止めました。
残された、あるいは遺された問題
ならば、人間が深く関わるが故の救済という幸福なメッセージのみで本作が終わっているかというと、そうではありません。
確かに、男は過去に犯した罪を償おうとし、そこに一つの形で救いがもたらされたように思います。しかし彼は、その救いに辿り着くための過程で、また新たに罪を犯したのではないでしょうか?
看護師、彼女の存在は男と並んで私の胸を深く震わせました。アジア系の養子としてカルトの宣教師に迎え入れられ、しかし決別に到る。支えだった兄を失ったが故に、そのパートナーだった男に献身的に尽くすも、それが理由で男は死へと向かう。さらには、男は貯金の件で彼女に決定的な嘘をつき、また、最期の時間を娘と過ごすために彼女に離れるようお願いをする。
彼女はおそらく本作の中で娘と対になる存在です。娘は、8歳のころに父から極めて悲劇的な理由で捨てられた、という傷を負い、しかし彼が自分を留保無しで肯定してくれたことで、おそらく救われました。
しかし、看護師の彼女は、男の死によって深く深く傷つくことでしょう。自分が彼を死へと追いやったのか、彼はなぜ自分の言うことに(従えたはずなのに)従わず、娘を選んだのか。異国の地でマイノリティ(女性・アジア系・カルトの家庭出身)として暮らし、兄の愛した人とも死別してしまった彼女は、これからの人生を、過酷な夜勤を繰り返しながら歩んでいくのでしょう。その日々に、男の最後の数日は、自問という影を落とすに違いありません。
ただ、その罪を男が気づき償うことはもう決してありません。これこそが、人間が深く関わったときに生じる、軋みとしての傷にほかならないのでしょう。
鑑賞を終え、自宅に帰る道すがら、男の胸に頭をあずける看護師の穏やかな表情、そして、喘鳴を聞くという理由で同じ体勢をとった元妻の表情を思い出し、また涙ぐんでしまいました。男は、一方で看護師といるときは、何も言わずに無表情でチキンを貪り、他方で元妻といるときは、おそるおそるながら手を伸ばして最後には肩を抱き、死の前であっても記憶を離れない、美しい浜辺での日について語ったのでした。
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