ネルソン・マンデラの思想その③非暴力という戦略

3,マンデラにとっての非暴力主義

ANCがガンディー主義を初めて公式に掲げたのは1949年。
それまでの請願と代表団派遣に代えて、ボイコット、ストライキ、消極的抵抗、抗議デモなどを中心とした「行動計画」が採択され、マンデラもその方針に従って非暴力不服従運動を展開します。

ANC(アフリカ民族会議)は1955年にはインド人会議、カラード人民機構、白人と共に人民会議を成功させ、「自由憲章」を採択しました。
この憲章は54項目から構成され、人民による統治、法の下の平等、言論等の自由、労働権、教育権など一般的な人権宣言とアパルトヘイト法の破棄などを定めています。

しかし、粘り強い不服従運動にもかかわらず、新たなアパルトヘイト法が次々に制定され、当局の弾圧は激しくなるばかりでした。
1960年にはANCも非合法化されてしまいます。

このような情勢の悪化を受けてマンデラは非暴力運動から武装闘争へ転換します。

 
1961年方針の転換

「国中いたるところで問題になっているのは、つぎのことである。
すなわち、こんなにもひどい苦悩と惨状をアフリカ人にもたらしてきた野蛮なやり方をする政府を相手にしているというのに、政治的に考えた場合、非暴力や平和を説き続けることは正しいか。
人種差別のない国家を非暴力手段で建設しようとする方針が何らかの成果もあげなかったという事実を否定することはできない。
支持者はこの方針に自信を失いはじめており、テロリズムという憂慮すべき考えを抱き始めている。内戦の可能性が高まっている。」


非合法下のANC内で議論を重ねた結果、ネルソン・マンデラを筆頭とする小さなグループが結成されました。
それは、武力闘争のための組織(ウムコント・ウェ・シズウェ{民族の槍}通称ウムコントMK)です。

マンデラにとって非暴力は戦略でした。

 
「状況が非暴力を必要とすればそうするし、状況が非暴力をうち捨てることを必要とすればそうする。
平和的な方法を使わざるをえないか、暴力的な方法を使わざるをえないかを決めるのは純粋にそのときの状況だけです。
運動を前進させたり問題を解決する唯一の方法が力の使用である場合、平和的な方法が不適当になった場合は力を行使するしかない。」


しかし、あくまで武装闘争では、生命の損失を伴わない破壊活動を選択し、その対象もアパルトヘイトの象徴物だけでした。
決して政府要人の暗殺などせず、内戦によって暴力革命を起こして政府を転覆しようとするものではありませんでした。
武力闘争の目的は政府による黒人弾圧をやめさせ、政府をANCとの話し合いのテーブルにつけるのが目的でした。

マンデラは、ボーア人とイギリス人の戦争の傷跡が消えるまで50年以上かかったことを忘れなかったのです。

マンデラは、常に最終的なゴールを見据えて、感情や目先のことに惑わされず運動をしていました。見習いたい!


執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

<参考文献>

「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」ネルソン・マンデラ著 明石書店

「ネルソン・マンデラ」メアリー・ベンソン著 新日本出版社

「ネルソン・マンデラ 分断を超える現実主義者」堀内隆行 岩波新書

「ネルソン・マンデラ 未来を代える言葉」ネルソン・マンデラ著 明石書店

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