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短編小説『変身』

「半日もああやって、大きな石を抱えているのを見ると、子供だとしてもちょっと何か怖く感じるのよね」

誰だっけ、そうだ、そう言ったのは隣の家の人だ。
専業主婦だから暇なのか、僕が外にいるときには決まって、カーテンの隙間から僕の行動を監視している。

きっとキチガイだと思っているんだろうな。
そして他の人にも言いふらしているんだ。
でも回覧板を持っていく時には決まって笑顔で世間話をしてくれるし、なかでお茶でもどう?なんて言ってくれるから、人ってよくわからない。

僕はまだ、人間の子供だったけれど、家の周りの皆がなんだか僕にだけ余所余所しく、たまたま会ったときは独特な緊張感が漂うことには気づいていた。

朝早くゴミ捨て場にゴミを捨てに行く時なんか、僕とばったり会おうものななら、みんなわざとらしいくらい、田んぼの方に気になる何かがあるみたいにそっぽを向いて、僕とはなるだけ顔を合わせないようにするんだ。

僕は大きな声で言う。なんせそれくらい気持ちのいい朝だったから。

「おはようございます」

皆は慌てて気がついたフリをして、困ったように笑って、次の瞬間には完璧な朝を迎えるためにこなしていないことがまだあったかのようなわざとらしい表情をつくっては足早に帰っていく。

僕は砂利道に放っておかれている犬の糞を3個くらい見つけた。

田んぼに設置された『雀脅し』が一定の間隔でバーンと鳴る。
初夏の朝を感じた。
ゴミ捨て場から振り返ると住宅街はまだまどろみや人の我儘のなかにいるように思えた。

僕はその日、家の近くの三角公園でブランコをしていた。
初夏の朝の澄み切った空気を感じると、僕はその公園でブランコをしたくなるから。

滑り台と、ブランコしかない、大人が3人でも入ったら、もうぎゅうぎゅうって感じの公園だけど、悪くない。

そして、大きな石を見つけた。
丸くて大きくて、僕はそれを両手で抱えるように持たなくてはいけなかった。

石全体が温かく濡れていて、ところどころ黒光りし、芝がついていたけれど、僕はその石に何かを感じた。

決して大それたものではない、あの子供特有の何かに特別を感じ、自分の運命と結びつけなくては気が済まないあれだ。

自分で考えて描いたキャラクターでもおままごとでもなんでもいい。
ただ、僕は、石だった。

その石を抱えて、僕はいたるところへ歩いて行った。
一度も家に帰らずに、遠く離れた公園とか、まだ息をしていない誰かの中学校とか、そういうところに顔を出しては石に話しかける。

じんわりと湿ったような石の感覚が僕のなかに淡く広がっていて心地よかった。
まるで口のなかで転がるキャンディみたいに。

それから家の近くに戻ってきた。

一番僕をキチガイだと考えている専業主婦が、僕の家の近くの電柱に新興宗教のポスターを貼っていた。
貼り終わると僕の家のチャイムをならして、

「この党は世界を変えるよ、日本だけじゃないよ、だから投票いってほしいんだけど、そしてこの党の名前書いておいて、ここの大先生は大変偉い人でね、それは世界の救済には真理が必要だって言うのよ」

と叫んでいた。

一通り叫び終わると、振り返って、石を抱えて汚れた僕と、抱えられている石をみて、怯えるような表情をして自分の家に戻っていった。

僕は石を持ったまま田んぼの近くの砂利道に戻ってきた。
一匹のまるまると太った芋虫が退屈そうに地べたを這っていたが、急に動きを止めて、首を上げて僕を見つめだした。

なんだろう、と僕は思った。
腕のなかで石が何かを伝えているように震えていた。

僕はなぜか石が何をしたいのかわかったような気がして、胸で抱えていた石を頭の上まで持ち上げて、1つ深呼吸。

次の瞬間、芋虫めがけて振り下ろした。

勢いよく潰れた芋虫の緑色の体液が体毛と一緒に当たりに拡散され、その一部が僕の口の中に入った。

じゃりじゃりとしていて、ねんちゃくしつで、いくつもの毛をかんじる。

口のなかの唾を吐いて、何度も何度も服の袖で口のなかを拭ってみたけれど、どうしても拭えているような気がしなかった。

僕は走って家のなかにいって、水道をひねり、うがいした。
それ以降、なぜか僕は短パンを履くのをやめてしまった。

翌日には熱が出て、ベッドから起き上がれなかった。
相変わらず隣の専業主婦が、新興宗教の宣伝にやってきた。

僕はなんだか、それが素敵な事のように思えてきていたから、熱のある体を引きずって玄関に行き、その救いの話を詳しく聞かせてほしいといったら、専業主婦が喜々として話して家に帰っていった。

とてもいい話をきけたので満足をして僕はベッドに戻り市販の解熱剤を飲んだ。

次の日には熱は下がった。
すると同時に先日の、救いに関する話が今時の子供だって騙されやしないバカバカしい内容だと思いなおした。

家の周りを、また脱走した柴犬が恐ろしい勢いで駆けていく。

僕はふと、手を見た。
ぎょっとした気持ちになった。
なんだが骨なんかないような軟体動物のような手をしていた。

色は若干緑がかってきているようだった。
よくわからない柔らかく細い毛が腕のあちこちから生えてきている。

僕の家の斜め後ろの人が、不倫の良さについて、BBQをしながら話していた。
その人の旦那は今どこか出張にいっているらしい。
奥さんばかりが集まって、そんな話をしていた。
僕は二階の窓を開けて、その光景を眺めていた。

BBQの火がきれいだった。
そこには新興宗教にのめりこんでいる専業主婦の姿もあった。
今度合コンしようと言いだして、皆が賛成していた。

そこには僕の母の姿もあった。

専業主婦が言った。
「半日もああやって、大きな石を抱えているのを見ると、子供だとしてもちょっと何か怖く感じるのよね」

僕の母親が笑って頷いた。
気味が悪いよね、と。

キャンプチェアーで火を囲む姿は何かの儀式のようだった。
それから僕は手を失い足を失い、一本という言葉で説明がつく生物になった。

一人暗い部屋で、僕は変身した。
あの石のことはとうに忘れていた。
宗教のことも忘れていた。
いつも人の敷地を駆け回っていく柴犬のことも忘れた。
火の前で合コンの話に前のめりな母のことも忘れて、僕は変身したのだ。




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