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エッセイ:一生懸命ってそんなに人を救うのかね?

あらためて前提を明確にする必要はないと思うけれど、僕は日本人であって、メキシコ人でも鳩でもない。
誰かと意気投合しても急に奇声を上げてセクシーでいかついダンスを踊りもしないし、餌のために自分よりも体の小さな鳩をいじめたりはしないし、物理的にもできない。

前者は搭載しているエンジンが異なるし、後者はそもそも生物的な超越が必要だ。

話を戻して、何のために前提を設けたのかということだけれど、
僕が言いたいことというのは僕は『日本人の働き方』をよく知っているということだ。

飲食店でも工場でも、品質保証でも働いたことがある。
傾向として、一生懸命の度を越えて働こうとするのは飲食店だけだった。
僕が働いていた工場は流れ作業ではなく、職人気質の一人で技術を磨き黙々と働く内容だったし、品質保証に関しては仮説と実験や、不具合を呈したためクライアントから戻ってきた不良品の調査とレポート作成を行っていた。

左のこめかみに右手の人差し指を当てて『プリン』と発すると、僕は数秒タイムスリップできる能力があるのだけれど、過去に戻って周囲を見渡しても『一生懸命』が適した働き方をする人はあまりいなかったと思う。

工場は個人としてのノルマとチームとしてのノルマがあったけれど、厳しいものではなかった。100%の労力を強制されなかったし、ノルマさえ超えればどれだけチンタラ働いてもよかったため、そういう意味では大変に楽だった。
品質保証に至っても大体似たようなものだ。
クライアントから戻ってきた不具合を起こした製品は、都度スケジュールに余裕のある社員が調査担当になっていたため、誰かの干渉を受けることはあまりなかった。あまりといったのは、毎週会議があって、その際にズームを用いて部長や課長と調査対象の進捗と不具合の仮説、検証方法の報告をし、全員で問題を共有する手間があったからだ。
けれど、部長や課長も同じ事務室にいて、席だって数メートルしか離れていないのに、みんなで会議の時間にマイクヘッドホンを頭に被せて、ズームにログインする必要性は最後までわからなかった。顔を突き合わせて話せばよかったのに。
毎日の朝礼なんて、わざわざ席を立ってみんなで近くに行って行っていたのだ。朝礼だってズームで完了すればよかったのになぜだろう?

僕はそういうあべこべを見ると胃が痛くなるほど悩んでしまうから、それは僕の短所で間違いない。

飲食には『正しい一生懸命』というものが少ないように思える。
例えば、マラソン大会に参加して用意ドンで、スタートから反対方向に走ったとして、どれだけ全力で走ってもゴールとの距離は縮まらないし、ルールにも則っていないわけだ。
ましてや、距離だけで行ったら走れば走るほどにマイナスになっていく。
誰かが逆走していると叫んでも、走者はなぜか首を横に振って、どうやらぶつぶつと何かを言っているようだ。
「一生懸命に走れば必ずタイムが縮まる、一生懸命、一生懸命」

マーケティングしないで新メニューを打ち出したり、接客の質で売り上げが上がると勘違いしていたり、客がこない時間まで無理に長く店を開けてみたり、目標に対して、不合理なことが多く、僕には理解できないことが多々ある。そして従業員が必死に働いているポーズをとる。
淡々と業務をこなせばいいと思うのに、演技臭くなったりもしている。

そういう観点から飲食店を見ると『一生懸命』が目的になっているような気がしてしまうのだ。
個人の評価を行うにあたって、評価軸になるポイントが非常に抽象的な結果そうなるのだろう。
けれどもそれって言いかえれば「演技力」が試されているわけだ。
10個のどうでもいい仕事を小走りで、息切れしながらこなしているのと、1個のとても大事なプロジェクトを慎重に進めているのだとしたら、前者が評価されるだろう。
僕も散々そういうのを見てきた。

今、僕はバンクーバーの飲食店で働いているけれど、やはり、オーナーも店長も意味のわからないことばかりを言ってきて、正気を疑っている。
(正気を失っているのは僕の方かも)

ベテランの従業員を全員クビにして飲食未経験の外国人を何人もいれて
「サービスが落ちたから売り上げも落ちた、なぜサービスが落ちたのだ?」と彼らはいつも不思議そうに話している。

僕は何事もだけれど、とくに仕事に関しては「絶対」に「一生懸命」に行わない。
神に誓ってもいい。
いつも最小の労力で最大の結果を生み出す効率重視だ。
産業革命が起きた際は、生産数=利益になっただろうが、現代は生産数が利益に直結はしない。だから売り方を解釈しなおしたり調査したりするマーケテイングが生まれたのではないか。

百歩譲って一生懸命はそれ自体が目的ではなくて、目的を遂行しようとするプロセスで『一生懸命』になることもあるだろう。それでも『一生懸命』が手段にはなりえない。
だから、この場合は目的と手段が入れ替わっているという話よりも前の問題、ということになる。

正しい目的設定がないということは、自分が設置したゴールが間違っている可能性があるから(上記した逆走の走者のように)より一生懸命になどなってはいけない。
視野が狭くなり、行為自体に固執し、どんどん取り返しがつかなくなる。

そして、何より、常に正しい目的を設定できるほど人間は合理的でも、長期的な視野を獲得しているわけではない。
僕らの脳みそは縄文人にちょっと毛が生えた程度だろう。
(おそらく、こういうと脳科学者は否定するだろう、いや、脳の機能に関しては縄文時代からかわらない、と。)

だからこそ、何事にも一生懸命になってはいけないのだ。
目的に完璧などいらない。代わりに必要なものは抽象化だ。
抽象化された目的は経過とともに微調整する意識を持てばよいし、一生懸命の幻想に取りつかれないで、コツコツと積み上げていけばよい。
一生懸命に期待してはいけない。彼らは僕らに対して実はあまりにも無力で貢献もせず薄情なのだ。

そうすれば、何か失敗した時も「一生懸命にやったのに」と何の因果関係も示さないものに落ち込む無駄な時間も少なくなるし、一生懸命を理由に心が挫折し、屈折しなくなるのではないか。

『一生懸命』は僕らの世代で終わらせなければならない、負の遺産だ。
つまり、「あぁ、ダラダラと淡々と生きたいなぁ」というだけのことである。
皆でダラダラ適当に生きよう。

まあまあ、そうカッカせずにwild blueberry pieでも食べて落ち着けよ


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