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自己肯定感と幸福度は比例する

前回の続きになります。↓


わたしは、瞑想を始めた頃から今の今まで一度も瞑想を修行だと思ったことはない。

と言うのも、理由はいろいろあるけれど、まず「なんとなく」はじめたからというのが大きい。
「なんとなく」だからそもそも無理なことはしない、自分に合わなかったらいつでもやめるし、面白かったら続ける。ただそれだけ。

そしてもしかしたら、瞑想のやり方も他の人とは少し違うかもしれない。

例えば、一時間瞑想しようと思ってタイマーをかけて坐ったら、途中でやめたくなった。
普通は、そこで頑張って頑張って最初の予定通りタイマーが鳴るまでじんわり坐り続けるのでしょうが(最初は誰もがそう教わります)、わたしの場合、やめたいと思った時点でやめてしまいます。

がんばりません(笑)

これが良いやり方なのかどうかわからない。坐る瞑想の場合、坐り続けることが目的だから、最初決めた時間は坐っていなきゃいけないはず。

ではなぜやめてしまうのか?
できないことはやらなくていい、と思っているから。

仕事ならまだしも、好きでやってる瞑想を苦行にしたくないと言う気持ちもある。

再度言います。これが良いやり方なのかどうかわかりません。


そして、こうやって自分が楽にできる範囲内で坐り続けていると、不思議とだんだん坐れる時間が長くなってくる。
最初は5分、15分、そして30分。
今は一時間ぐらい平気で坐れる自分がいる。


邪道なのかもしれない。でもわたしはこれでいいのだ、と確信してる。できなくてもいいんだ、と自分に許可を与える。
これが、自己肯定感につながっていくことになりました。


わたしが瞑想をはじめて最初に得たものはこの「自己肯定感」。
今のままの自分で良いのだ、という気持ちは、根拠のない自信につながり、次第に瞑想が心から楽しいものだと思えるようになってきました。


外の世界ではいろんなことが起こっています。
小競り合いにはじまり、暴力、虐待、紛争、飢餓、戦争。数え上げれがキリがないほど、世の中には争いと苦しみに満ち溢れています。

そんな中で、「何もせず」「何も考えず」「ただ坐って」いられることの幸せ。
一見、無駄な時間とも思えるような時を過ごすことができるのはこの上なく贅沢で幸せなことなんじゃないかと思うようになった。


目を瞑って瞑想、でなくてもいいです。
ただ空を見上げて雲の流れゆくさまを見ながら頭を空っぽにする時間をとる。

5分でも10分でもいい。

こういう無駄な時間を過ごしていいんだと、自分に許可を与えてみましょう。
いずれそれはあなたの幸福度につながっていくことになります。

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