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映画『ルックバック』を見て思った。表現とは「何を描くか」ではなく「何を描かないか」

人に誘われて映画『ルックバック』を見てきました。上映時間は58分。そのためか料金は安めに設定されていた。コンパクトだけれど、とても味わいのある作品だった。よかったよ!

藤野と京本。絵が好きで、絵が上手い2人の女の子。
藤野は、学年通信にマンガを連載していて、スポーツも得意で、友人も多い人気者。対して、京本は不登校で引きこもり。

そんな2人が小学校を卒業するタイミングで顔を合わせ、一緒にマンガ家を目指す。作品づくりの熱狂と葛藤(でも基本的に全て楽しそう)、承認される喜び、恋愛にも似た密な関係性。成長と別れ。そしてつらすぎる事件。

主人公が、マンガ家や作家、芸能人を目指すような作品は世の中にいくつもあるから、なんかもうこれだけで、さまざまなエピソードや描写が勝手にぐるぐる浮かんでくる感じなのだが、『ルックバック』にはそれらがほとんどない。

まず、ガチ進路の話なのに、2人の親は出てこない。正確に言うと、藤野の親は絵柄としては登場するがセリフはない。彼女に対して「もう中学生なんだからそんなことやめな」というのは藤野の姉である。

京本にいたっては、不登校かつ引きこもりなのだから、その進路選択には相当に親が関わってきそうなものだが、全くでてこない。大きくて立派な家で、個室や画材をふんだんに与えられて暮らしているのだから、親がいないはずはないのに。

季節の推移は主に自然描写。2人が暮らす地域の自然の風景がでてきて、春、夏、秋、冬(雪景色は印象的)、また春・・・とその繰り返しで伝えられる。

藤野の努力は、本棚にどんどん増えていく美術関係の本と、描き込んだスケッチブックの山。いつどこにいても、何かを描いている後ろ姿。

お菓子を食べながらもペンを動かす2人。談笑する2人、議論しているっぽい2人。こたつで並んで眠ってしまう2人。

具体的なエピソードはないけれども、これだけで2人の関係性や、どういう時間を過ごしてきたかはばっちりわかる。2人の関係が変化していくことの重さ、そしてその後の事件の重さも。

私は原作のマンガは読んでいない。
ただ、映画化に当たっては、エピソードを足すなりして2時間の尺に仕上げるという選択肢もあったと思うが(そして通常料金にする方が事務まわりはもろもろ楽だったはず)、この作品に関わった人たちはそれをしなかった。そこがスゴイ!と思った。

マンガにしろ、映画にしろ、言いたいこととか、描きたいことがあるのは当たり前で、ものすごくないろいろなことを調べたり、描いたりしていると思う。ただ、何を残して、何を削るか、よくよく吟味してそぎ落としていかないと、全体を薄めてしまう。調べたことやわかったことを全部描こうとすると、なんかこう、探求学習の発表みたいになっちゃうのよ。
「何を描くか」ではなくて、「何を描かないか」がその作品の本質を決めるんだなあ。

そういう意味では、俳句って、究極の芸術ではないかと思った。アウトプットは17文字だけど、その背後には、読み手が過ごしてきた全ての時間や、見てきた世界が詰まっているわけだから。


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