ショートケーキの最後のいちごを食べてほしい人
優しさとか思いやり、相手のことをどれだけ好きなのかを図る指標でこの世はあふれている。指南本やネットの記事、SNSの恋愛ノウハウまでみんな正解をさがしてぐるぐる迷路の中。
でもわたしはただひとつ、ショートケーキの最後のいちごを食べてほしいと思えることが大切だとおもいます。
’’食べてほしい’’ とはなにか
わたしだって食べたい、胃の中であまったるいクリームがもやのようにかかっているんだから。じゅんばんに食べていたケーキなのに最後に残ったいちごはキラキラ宝石のように見える、いつも。
でも、同じように感じている人がもう一人、わたしのとなりにいるとする。
その人にどんな思いをしてほしいか、それによってすべての関係性が決まるのではないかとおもいます。
例えば家族なら、友達なら、見知らぬ人なら、昔の恋人なら。
このひととならいちごを奪い合うかな、はんぶんこにするかな、たべてほしいという相手の気持ちを受け入れてぜんぶ食べるだろうか。
でも、こうだ。
わたしは愛する人にいちごをまるっと食べてほしい。
愛する人の胃の中にかかっている生クリームのもやを晴らしたい。
愛する人が最後にすこしぜいたくをした気持ちになってほしい。
愛する人に受け取ることのしあわせを感じてほしい。
これはただ単に押しつけがましい愛の押し売りなのかもしれません。
でも相手の幸せがわたしの幸せだと思えたら、それはもう愛なんじゃ!
自分よりも相手の幸せを考えられるような人間に、そんな愛の技術を持った人間に、死ぬまでになりたいな とおもう。
’’食べてほしい’’ とおもえるには
基本的にわたしは愛は技術だとおもっている。
だいすきなエーリッヒ・フロムの言葉である。
文字どおり雷に打たれたように恋におちて、相手のことが忘れられない情熱的な恋愛だってもちろん美しいとおもう。でもわたしたちはもう大人だ。
相手を愛することを自分に約束して、大きな決断として胸に決意を抱くこと。そうして初めてふわふわと流されることのない愛が生まれるのだと。
いちごを食べてほしい、とおもうにも、自然現象的に生まれる感情に身を任せていては、いつまでも大きながまんと共にいちごを相手の皿に乗せてあげることになるだろう。そんなのいやだ。
食べたい!と大きな声で言われたら、あなたにはあげたくないと言われたら、いちごは好きじゃないからいらないと言われたら。
恋に落ちている人間はすこし悲しい気持ちになったり、なんだよ とおもったり、もう食べてほしいとおもうことなんてやめようとおもったりするかもしれない。
それは技術のない見せかけの愛だからだとおもいます。
相手を赦し、受け入れること。愛を決断し、相手のすべてを受け入れること。そうやってはじめてほんとうの意味で最後のいちごを食べてほしいとおもえるようになる、とおもう、たぶん。
こんな大きな口をたたいているけれど、わたしだってまだ赤ちゃんで、ぜんぜんいちごが食べたいとおもう時もあります。
それでも一人の人間とちゃんと向き合い、いちごを食べてほしいとおもうことが増えて、たくさん自分の中にとりこんできた愛の技術が少しずつ実を結んでいると感じることもあります。
人生どうせ死ぬんだから、きっとさいごのさいごも君にいちごを食べてほしいとおもえますように!!!
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