見出し画像

【日記】気持ちが上がらないので、丁寧にお茶を淹れてみる

なんだか漫然としている。

調子が悪いわけではないけど、良くはない感じ。
気分が落ち込んでいるわけではないけど、上がらない感じ。

水を吸って重たくなったスポンジの気分だ。
これ以上何かを吸収する余力もないし、何よりどんよりと体が重い。

とにかく、なんだかすっきりしないのだ。
こういう時は、何をやっても上手くいかない気がする。

それは、例えば、仕事中。
いつもは気持ちよく滑らせることが出来るペンもぎこちなくなって、とんでもなく不格好なバランスの文字を並べてしまう。
どんなに書き直したって、まるで嘲笑っているようなカタチが並ぶばかりで辟易する。

そして、仕事が終わっても。
夕食に何か食べたいが、何を食べたいのかなぜだかわからない。スーパーに行って食材を見ても、何も浮かんでこないのだ。
しかし、それでも腹は減る。
何を食べたのか覚えていないようなものを食べる。そしてどうにも満たされない。それは見越せていたようで、食後のおやつまでしっかり買っているが、それでも自分を満足させられない。財布からお金を出して消費している瞬間にはささやかな慰みもあるが、結局何も変わっていない。

それからnoteに対しても。
書きたいことはあるのに、言葉たちはまとまらない。何度も書いて、何度も消して、書けば書くほど自分の言いたいことが霧散して、ふらふらとどこかに行ったまま帰ってこなくなる。ようやく実った言葉たちも、中身はまるで借り物のようで。

あーよろしくない、よろしくない。

こういうときの処方箋。
日常のささやかな出来事を丁寧にやってみるのだ。

◆◆◆

ということで、今日は寒いし、お茶を淹れることとする。

珈琲の話ばかり書いている私だが、ある年齢になってから緑茶がとっても好きになった。

本来、急須や湯呑は陶器で揃えた方が雰囲気も出ていいと思うが、私はガラス製の急須を使い、それに合わせて耐熱性の厚手のガラスグラスを使っている。「ガラス製なら紅茶にも使えるじゃない」という貧乏根性が中途半端な和洋折衷に至らせた訳だが、結果的に今日に至るまで紅茶を入れたことはない。ただ、まぁこれはこれで良いでそれは後述しよう。

まずはお湯を沸かそう。コンロでやかんを沸かす。
沸騰したら急須にお湯を注いで、今度は急須からグラスにお湯を注ぐ。こうして茶器たちを温めておくと、この後の抽出作業が安定するし、湯冷ましにもなる。

大体、珈琲は90度前半が美味しい抽出温度と言われているのに対し、緑茶は70度前後を推奨していることが多い。実際、沸騰したてのお湯で入れたものと比べると口当たりが全く異なるので、少し面倒くさいが70度前後にすることをオススメする。面倒くさい人はお水を入れて温度を下げてみるといいかもしれない。私はグラスに入ったお湯に温度計を指して適当な雑用を片付けて待つ。

ちなみに私が使っている温度計はアナログタイプで、針先が温度を示すもの。デジタルの方が直感的にわかりやすく、温度への反応性も高いため、アナログタイプは時にじれったく感じられる。
ただ、検温部をお湯に付けて動く針の様子を見るのも悪くはない。最初は驚いて飛び跳ねるように動く様子も、近似値でゆっくりと温度を見定めるようにじりじりする様子も、気の遠くなるような、それでも実はほんの少しずつ温度が落ちていく様子も、なんだか童心に帰らせてくれる。小学校の理科の実験を思い出しているのかもしれないね、と思ったりする。

さて、お湯が程よく冷めたなら、急須に茶葉を入れる。私は実家からもらったものを使っている。以前帰省した時に母がお茶を淹れてくれ、その美味しさが思わず言葉になった私を見て、母が持たせてくれたのだ。母が愛飲していたこのお茶の産地は、亡き祖父の出身地だという話も一緒に。

茶葉の量は大体でいい。1人分あたり大匙1くらいとあるが、まぁ大体でいいと思う。少なすぎるよりは少し多いくらいが良いと思う。

茶葉を入れたら、ぬるくなったお湯を注ぎそのまま1分蒸らす。お湯を注いだ瞬間から、ふわっとお茶の香りが漂う。珈琲のように強くはないが、優しく親しみがあって、心地よい。
そしてこの時、透明な急須は役に立つ。お湯の中を舞うようにゆっくりと広がっていく茶葉の様子と、透明だったお湯が徐々に色づいていく様子を堪能できるのは、ガラス製ならではの愉しみだと思う。

他の産地のお茶をそこまで淹れたことがないので違いはわからないのだが、急須で淹れたお茶は思ったよりも薄い。ペットボトルのお茶のような綺麗な緑色にはならない。もっと繊細で、薄い緑色、翡翠色と言ったら良いだろうか。変な例えだが、コーヒーマグで有名な『ファイヤーキング』の色にどこか似ている。
いずれにせよ、日常ではなかなか目にしない、控えめで儚く、美しい色合いだ。

1分経ったら、さっきまで温めておいたグラスにお茶を注ぐ。

「珈琲はファーストドリップ、
 お茶はゴールデンドリップ、
 それが一番美味しいところなんやで、はやぶさ」

と昔のバイト先で聞いた特徴的な関西弁が私の中に響く。
珈琲は最初の一滴に、緑茶は最後の一滴に、一番旨味が詰まっているのだと彼は言う。人々が執拗に急須を振って絞り出さんとしているのにはそういう理由があるため、私もしっかり振り切る。意外としぶとく切れないが、そこが美味しいと信じて振る。

そうしてようやく1杯が入った。
ガラスグラスなのでもう一度眺めると、やっぱりきれいな翡翠色だ。こういう時、グラスを持ち上げて下から見上げたくなるのはなんでだろう。
それにしても良い色だ。

一口。口に含む。
珈琲のような熱さはないので、思いの外たっぷりと口に含める。
するとどうだろう。びっくりするくらい甘いのだ。
もちろんわざとらしい甘さでは全然なくって、優しく仄かな、まろやかな甘みが、じんわりと染み込んでくる。そこに刺激はほとんどなく、ほっこりとする気持ちで満ちていく。香りもとても柔らかくてホッとする。

長らく急須でお茶なんて飲んでいない、
ペットボトルでしか飲んだことがない、
という方には本当に試してほしいと思う。

「え?お茶ってこんな味なの?」

と驚きと感動と安らぎが得られると思う。


そして、お茶の良いところは、複数回淹れられること。一度淹れたらそれっきりの珈琲との大きな違いだ。

大体三煎目くらいまでは美味しさを感じられる。淹れた時の香りや色味、風味の変化を楽しめたなら、きっと心も豊かになっているに違いない。



【あとがき】
『あれだけ珈琲シリーズやってるんだから、珈琲の淹れ方とか書いちゃうんでしょ?』と私の中の誰かが言い出したので、「残念、お茶でしたー」とセルフフェイントをしました。誰と戦っているんでしょうか私は。
こんな下らないことが頭を駆け巡るくらい、どうにも気持ちが持ち上がらない今日この頃です。正月疲れなんでしょうか。元々実はこんなもんで、もっと調子がいいはずだと錯覚しているだけなんでしょうか。
途中で登場した関西弁の方は、私の珈琲のお師匠さんとでも言う人で、お茶や珈琲を淹れる度に思い出します…ちなみに全然ご存命です。いつか書けたらいいなぁ。

さて、二煎目でも淹れますかね。



サポートのご検討、痛み入ります。そのお気持ちだけでも、とても嬉しいです。