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丸い味の珈琲

随分と歩いたな、というのが最初の印象だった。

当時、駅から東に15分ほど歩いた街外れに住んでいたため、駅から西に同じ時間歩いた場所にあるこの店に着くには大体30分くらいかかった。東西大横断である。

一世を風靡したmixiも斜陽気味になり、140字しか呟けない青い鳥がネット社会に羽ばたき始めた頃の話。
小売店の手作りホームページはまだまだ発展途上で、各々味のある独特なページを作成しており、その店もご多分に漏れずであった。当時の私は何に惹かれたのか忘れてしまったが、何か惹きつけるものがあったようだ。

当時のバイト先のオーナーであった私の珈琲のお師匠さんが、
「はやぶさ、他の店に行って勉強してこい。店員さんがどうやって物を提供するかとか、話し方とか、客として体験してみぃ」
と独特な関西訛りで勧めてきていて、当時の若くて無垢な私は何の疑いもなくネットで検索して、この店に辿り着いたのであった。

同じ街ながら、西側に来るのは初めてで、もはや隣駅といっても過言ではない程来てしまったのでは、と少々心細くなってきた辺りで珈琲屋に出会った。
店先には三角看板。小さなお店だが、濃い木目調のシックなお店だった。チャラチャラしていないし、なんなら少し敷居が高くもあった。

「いらっしゃいませ。お豆のご注文ですか?喫茶きっさですか?」

喫茶きっさ”という言葉が耳慣れなかったが、耳馴染みは悪くなかった。この店の、この雰囲気に、とてもよく合っている。

明るい外とは対照的に、柔らかい照明で落ち着いた雰囲気
外観同様、濃い木目調と白い壁で構成された店内
店主の好みで選ばれ、丁寧に置かれたCDや本などの小物たち

窓はないものの、この少し密閉された空間に収まりの良さを感じた。

入ってすぐの脇にはガラス張りの焙煎室があり、まるで実験室のようなワクワク感があったし、3つのロースターたちが回る音はまるで蒸気機関車のような力強さがあって、それもまた私を魅了した。

これが私と珈琲屋の始まりだった。
以来、10数年以上ここに通っている。

ただ、それも今だからこう書けるのであって、当時の自分はそんな余裕もなかったような気がする。

まだまだ青くて、人見知っていたし、周りよりも自分に目が向いて余裕がなかったあの頃。通い出してもしばらくは緊張していたし、上手く話せる自信も技量も持ってなかった。プライドは存分に持ち合わせていたので「私は自分の時間を過ごしに来たんです」と言わんばかりに、持ち込んだ本にひたすらに目を落として自分を守っていた。
今思うと、若いくせに気難しくて、愛想のない変な客だったんだろうなぁ。

ただ、私にとしてはただただ必死だった。
軽く押しても、傾けても、零れ落ちてしまいそうな自分の中身を守ることしか頭になくって、外からの刺激が来ようもんなら美しく返したいと空想と自惚ればかり先走って、蓋を開けたら素っ気ない、下らないやりとりしか出来ないのだ。
あれだけ必死に守っているくせに、イザとなったら中身のない人間を露呈してしまうのであって、そういう自分だって見せたくないので、ただただハリネズミのようにトゲを突き出し、体を硬くしてその場をやり過ごしていた。そもそも守るべき、中身なんて何もなかったのかもしれないのにね。

◆◆◆

「珈琲は鮮度が6割、焙煎が3割や」
「残りの1割は?」
「それが淹れ手の技術ってやつや。ただな、その1割を舐めたらアカンのよ。それで全然違うんやぞ」

そう言われて師匠と初めて淹れ比べをした時のことを思い出す。

師匠の淹れた珈琲は豆本来の味のバランスを十分に保ちながら、とても良くまとまっている。丸い味の珈琲だ。そのため、時間が経ったり、冷たくなっても味がほとんど変わらなかったのだ。

「はやぶさのは、とんがってるなぁ」
と言われたことを今でも思い出す。

良くも悪くも豆の味の特徴が良く出ていて、苦み・酸味・甘味が刺激的に感じられるものの、ちょっとまとまりに乏しい感じ。特に時間が経ってから飲み比べると、同じ珈琲とは思えないくらい味が変わっていて、とても飲みにくい代物になってしまっていた。

「ま、それは若さ故、やな」

◇◇◇

師匠の言葉はまさにその通りで、若くてとんがってた当時の自分を見事に言い当てられた感じがあったし、恥ずかしさとこそばゆさはその後もしばらくついて回った。

そのうちにバイトは辞めてしまったが、珈琲屋の方はなんだかんだで通い続けた。義務感みたいなものもあったのかもしれないし、なんだか悔しかったのかもしれない。師匠に言い当てられた自分が変わらないまま、全てから逃げているような気がして。

晴れの日も、雨の日も
夏の暑い日も、冬の寒い日も
良いことがあった日も、気分が上がらない日も
この街外れに来て、珈琲と豆を頼んで本を読んだ。

相変わらずのハリネズミな私だったが、そんな私を受け止めてくれたのもこの店だった。並行して色んな店を巡ってみたけど、気付いたらこの店が恋しくなってしまって、どこに行っても「照明はもうちょっと暗い方が」とか「音楽のチョイスが」とか、いつの間にか珈琲屋と比較してしまう自分がいたのだった。

そうこうしているうちに長い学生生活を終えて社会人になり、
仕事を辞めたり、転職したり、
人と出会ったり、別れたり、
そんなことを何度か繰り返した。

そのうちに服の好みも変わったし、
昔よりは周りが見えるようになった。

するといつの間にかお店の人ととも仲良くなって言葉を交わせるようになっていた。あれだけあった自意識も、どこかで自分に中身がないってことに不承不承ながらも開かれて、少しだけ手放せたみたいだ。
お店の人とのやりとりは決して長くはないけれど、いつから来てたとか、何の勉強をしていたかとか、どんな仕事をしているのかとか、ちゃんと覚えてくれていて、そのゆるい温かさが、気負った私にはとてもありがたかった。
焙煎したての珈琲を求めていた私だったが、いつの間にか、この場所に通うことが生活の一部になっていて、それは私そのものが大きく変わる体験をもたらしてくれたようだった。

さて、今の私は、少しはトゲが取れただろうか。
そして、師匠のような丸い味の珈琲を淹れられるようになっただろうか。

もしそうだとしたら、それはきっと、あの珈琲屋のお陰なんだろうと思う。

次に住む街にも、こんな場所はあるだろうか。







【あとがき】
珈琲屋にまつわる思い出話でした。結局自分の話になってますが、まぁそれはご愛敬ってことで。
転居のこと、何て言ったらいいかわからなくって、まだお店の人と話せていないんですよね…。気が重くって仕方ないのですが、いつか言わなくてはなぁと、日々悶々。
転居は不安ではあるのですが、この場所で培った経験というのはとても大きくて、ここでの体験があれば、どこでもやっていけるんじゃないかと。そんな勇気と自信も、珈琲と一緒にもらったんじゃないかなって思ってみたり。

かんじんなことは 目に見えないんだよ(サン=デグジュペリ)


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