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言葉の裏を読まないと、人間関係はこんなに快適になる。

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つまり人とコミュニケーションをするにあたって、「相手の言葉に隠れた意味を読むか、読まないか」という議論。

ちなみに私は「アップルパイがあるねぇ」「来週葬式があるのかぁ」で終わるタイプ。

というのも、昔から人付き合いにおいてのマイルールとして

言葉は言われた通りに受け取る。
裏の意味や真意を勝手に考えない。忖度もしない。

ということを大切にしているからだ。

これを意識すると良いことが2つある。

ひとつめ

無意識に他人にケアを求める察してマンから「あなたって気が利かない人ね」と避けてもらえるので、裏表のない関係が築ける。
ケア乞食のターゲットにされない、と言ってもいい。

なおこの状況においてケア乞食が言う「気が利かない」とは、自分のわがままが通らない不満を人のせいにしてるだけで、実際は「あなたは無料で私をケアしてくれないのね」という意味だ。そのケア乞食が去って残った周りの人たちが尊敬できる人なら、あなたはちゃんと気が利く人なので気にしなくて大丈夫です。

ふたつめ

褒め言葉を素直に受け止めることができるのでハッピーが増える。

裏を読んでばっかりいると、「褒め言葉」すら裏を読んでしまうクセがつく、という弊害があると思う。

例えば化粧品のカウンターで「お肌綺麗ですねー!」と褒められたとき、裏を読むと「あーはいはいセールストークね」で終わってしまう。

けれど裏を読まなければ「そうか、今の私の肌は綺麗なんだ🤗。スキンケア頑張ってよかった!ハッピー👏🏻!」と思えるし、お姉さんにも「昔肌荒れが酷くて自分の肌がコンプレックスだったので、そう言ってもらえると嬉しいです!ありがとうございます!」と返答できる。

そしてこういう返答ができると、私を接客してくれてるお姉さんも「自分の接客で人が喜んでくれた!」と自信を持つことができて、笑顔がパッと輝く。

いいことしかない。

やっぱり褒め言葉は、素直に受け取る人のところにたくさん与えられると思う。
だから私は社交辞令でもセールストークでも、褒め言葉はなんでもありがたく頂戴する。


ところで、「裏を読む」と「忖度をする」と「気遣いができる」はかなり違う。

「言葉は言われた通りに受け取る。忖度もしない」というのは、なにも人の好意や気遣いにフリーライドして生きろというわけではない。
そんなことをしたら嫌われたくない人にも嫌われてしまう。

例えば「来週、葬式あるんだ」と言われた場合。

「私に葬式の準備をしろって言ってるのか?」と思うのが裏を読む。言われていないことを言われたかのように受け取っている。

勝手に葬式の準備を整えるのが忖度をする。頼まれていない行動を勝手に起こす。

「葬式かぁ。私に手伝えることある?」と確認するのが気遣い。頼みごとがあるなら聞くよ、頼まれたらやるよという姿勢を見せる。

もうひとつ例を挙げる。

会社や学校で「この部屋暑くないですか…?」と言われたけれど、自分は別に暑くなかった場合だ。

「私に窓を開けろって言ってるのか?それともエアコンを付けろと言ってるのか?」と思うのが裏を読む。

窓を開けたりエアコンを付けるのが忖度。

「私は別に暑くないですね〜。でもエアコン付けたかったら全然付けて大丈夫ですよ👌」もしくは「窓空けます?」などと気温を下げたい相手の気持ちを尊重するのが気遣い。

じゃないかなー、と思ってる。

前提として、普通以上のコミュニケーション能力がある大人というのは、相手にやって欲しいことがあるとき、相手を不快にさせない形で要望をきちんと伝えることができる。

もしも身近に「私が言葉にしていない要求も察して、私が言葉で指示している以上の行動を起こしなさい」と要求してくる大人がいたら、そいつは間違いなくコミュ障だ。
あかちゃんだ。

そんな行為が許されるのは小さな子どもか、知的障害者だけだ。

例えば、「ご飯いらない」と言う小さな子どもに対して、「どちたの?ぽんぽん痛い?お熱ある?りんごすりおろしたやつなら食べれるかな?」と裏の意味を考えることはある。

これは言語化ができない相手への配慮として必要なことだ。
力持ちがより重い荷物を持ってあげるように、考える力、言語化する力がよりある方が、相手の不慣れや苦手をカバーするのはとても大切なことだし、思いやりでもある。

けれど大人になっても自分の言語化能力や人にものを頼む能力が著しく欠乏していることを棚に上げて、他人の労力のリソースを割かせた上にケアが不十分だと文句を垂れる奴がいたら、そいつはクズだと認識して間違いない。

察してマン(別名:ケア乞食)と言葉の裏を読まなければいけないコミュニケーションをしている時、あなたは介護をさせられている。

逆に言えば、「言葉の裏を読む」というのは、相手を子ども扱い、またはコミュ障扱いしているのと同じだ。

まともな大人が「今日はご飯いらないや」と言った時に、「どちたの?ぽんぽん痛い?お熱ある?りんごすりおろしたやつなら食べれるかな?」とは言わない。

普通は「はいよー」で終わる。
話を膨らませるなら「どっかで食べてくるの?」と続ける。
心配性の人なら「食欲ないの?」と慮ることもできるだろう。

だから私は「言葉は言われた通りに受け取る」ことをは相手への礼儀だと思ってる。

「言葉の裏を読まない人間になりたいけど、失礼だと言われそうで怖い…」と感じて勇気が出ないなら、「言われていないことを勝手に読み取る方が失礼なことだよな」と認識するくらいでちょうどいいと思う、

大人を子ども扱いするのは失礼だ。
ずっとしていると「大人扱いして欲しい大人は離れて、子ども扱いを望む頭のおかしい大人」が寄って来てしまう。

同じように言葉の裏を読んでばかりいると、裏表のない人間が離れて、言語化が下手でお願いも下手なコミュ障が寄ってくるので気をつけよう。

ちなみに「やって欲しいことは誤解なく伝わるように言う」「相手の言葉の裏は読まない」を大切にしているけれど、その結果として、友人とも恋人とも腹を割って話せる関係を築くことができている。
これは私の数少ない誇りでもあり、自信を持てる部分でもある。
私と友達たちとの関係、めっちゃいいのよ。

腹を割った人同士の関係となると「オープンな人同士」というイメージがあるかもしれないけれど、私はともかくとして、友達はむしろ、かなりの気遣い屋だったり、秘密主義者だったり、繊細な人の方が多い。

「市木は裏表がないよね」「見下してないのに見下されてると思われたりするけど、市木はそう思わないことがわかるから話しやすい」と、よく言ってもらえる。

そしてそういう言葉が本音だって思えるから、もっと友達のことを好きになる。

まあでも、今日語ったのは、あくまでも友人や恋人など、「自分で付き合いをコントロールできる人間関係」についての話。

家族などの身内や同僚、あるいは上司など、操縦桿がこちらにない関係の中に「裏を読むコミュニケーションをしてくる人」や「裏を読ませるコミュニケーション」をしてくる人がいると、かなりしんどいよね。わかる……。

そういう身内との付き合い方は、それはそれで考えなければいけないことだ。
でも少なくとも言えるのは「そいつはコミュ障だ。あかちゃんだ」ということ。

本当に、言葉の裏は読まないに越したことはない。
もちろん、気遣いは忘れずに!

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