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投稿雑誌からブルセラへ

70年代に篠山紀信が火をつけた「激写ブーム」が大量の「カメラ小僧」を生んだ影響で、80年代にはカメラや写真をテーマにした雑誌がいくつか創刊された。

まず筆頭として挙げられるのが、80年4月創刊の『写楽』(小学館)と81年9月創刊の『写真時代』(白夜書房)。前者は篠山を中心に芸能人のヌードを多数掲載、後者は荒木経惟を中心になんでもありの面白主義を展開した。

そんな中、ちょっとしたブームとなったのが投稿雑誌だ。以下、代表的なものを挙げてみよう。

81年9月創刊の『セクシーアクション』(サン出版)は、アイドルから素人の女の子まで際どい投稿写真を多数掲載。

82年1月創刊の『アクションカメラ』(ベストセラーズKK)は、アイドルの激写を中心としつつ、読者からの投稿も募った。

82年8月創刊の『写真時代Jr.』(白夜書房)は、『写真時代』の兄弟誌で面白主義の趣はあるものの、読者投稿のコーナーも設けられている。

84年10月創刊の『投稿写真』(考友社出版)は誌名の通りの投稿写真誌。「カメラBOYの悪漢マガジン」をキャッチコピーにしているが、アイドル色も強かった。

84年11月創刊の『スーパー写真塾』(少年出版社)は「120万人の少年カメラマンが作る雑誌」のコピーの通り、読者の撮るアイドル写真やパンチラ写真を掲載。写真入門講座も設ける。

カメラ小僧を「正規軍(バストアップのキレイキレイ写真)」と「維新軍(パンチラ狙いのアウトロー派)」に色分けし、互いを競わせることで、質を高めるなど、投稿雑誌の草分け的存在でもあった。

その他にも『写真CAN』(東京三世社)や『カメラクラブ』(笠倉出版社)、『写真少年』(サン出版)、『熱写BOY』(大亜出版)、『写真探偵団』(三和出版)など、雨後の筍のごとく、投稿雑誌が創刊されたが、ブームの中心にあったのは『投稿写真』と『スーパー写真塾』だ。

ピークはだいたい85年の秋~冬頃で、『投稿写真』は30万部を越え、『スーパー写真塾』は20万部完売。数も質も二誌に劣っていた『写真探偵団』でさえ8~9万部は売り上げる異常事態に。売上に伴い、懸賞金も40万から50万、60万へとつり上がっていった。

しかし、ブームは長く続かない。読者の写真遊びに二流出版社が売れると目をつけた結果、有能投稿者の奪い合いやヤラセによりマンネリ化。ジャンル自体が次第に飽きられていく。

そんな中、最後に猛威を振るったのが85年9月創刊の『熱烈投稿』だ。ただこちらはアイドルや盗撮が主な少年向け投稿雑誌の流れとは別で、ニャンニャン投稿誌(読者自身による素人写真)として部数を伸ばした。

その背景には、コンパクトAFカメラの普及によってカメラのある日常が構築され、投稿のハードルが下がったことが考えられるが、85~86年のおニャン子ブームの影響もあるのではないか。

というのも、投稿雑誌の人気がピークを迎え、ニャンニャン写真が登場した85年は、ブルセラ(女子高生のアイドル化)のターニングポイントでもあるからだ。

おニャン子ブームだけではない。ブルセラショップの誕生、「月刊ブル・セラ新聞」連載の『熱烈投稿』や『近未来的女子高生MAGAZINE POP・UP』(日本出版社)の創刊、森伸之『女子高生制服図鑑』による制服ブーム(東映から『東京女子高制服百科』なんてビデオも出ていた)など、おニャン子を大きなきっかけとして、ただの女子高生とアイドルの境界線がなくなっていくのはこの辺りから。

そこから92年をピークに女子高生エッチ雑誌が氾濫し、94年にはこうした時代の集大成とも言える園田俊明の『女子高生をどうぞ』(稲増龍夫や森伸之も参加)が出たりもしたが、一方で96年頃にブルセラブームは衰退。

ただし衰退といっても、若者が性を売らなくなったわけではなく、むしろそうした行為が社会全体で当たり前になっていく。

極端な例を挙げれば、92年頃には、生ダラでセクシー小学生コンテストが開かれ、ねずみっ娘クラブが誕生。女子小学生が自身を性的にアピールする姿がテレビで普通に放送される。

まんがや少女スナップ、倉橋のぞみや森山ミクのヌードが掲載された、おたく的なロリコン雑誌『ロリコンHOUSE』(1987年8月号からは『ロリくらぶ』)は、89年8月に廃刊となっているが、こうした流れを見ていると、宮崎事件がなくとも、あれ以上続かなかったのではないだろうか。

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