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松村宗棍のナイハンチ

以前、「松村宗棍の型」という記事を書いた。その記事で、筆者は松村の名の付く型はいくつもあるが、実際に松村先生が教えたと直弟子が証言している型は3つしかないと述べた。それはナイハンチ(初段)、五十四歩、クーサンクーである。

もちろん上記以外の型を松村先生が教えていた可能性はある。しかし、松村と松茂良――両者はマチムラと沖縄方言で同様に発音をする――を単純に混同したと思われる例もあり、それゆえ、戦後の伝承に基づく型についてはいったん排除しておく必要がある。

また、上記の型についても、現在普及している同名の型と特徴がどの程度まで似ているかという問題がある。以前紹介したように、摩文仁賢和が家扶・又吉盛博またよしせいはく(松村派系統の人)から教わったナイハンチを糸洲安恒に見せたところ、「それは元の型で私が研究の結果現在の型に改めたのだ」と、言われたという。

つまり、今日広く普及している首里手の型はナイハンチをはじめ、その多くは糸洲先生によって改変されたものである。それゆえ、松村の型の特徴を知るためには、糸洲先生とは別に、実際に松村先生から教わった直弟子の証言が重要となる。

さて、松村先生の型のうち、ナイハンチの特徴について、本部朝基は生前著書やインタビューで幾度か語っている。他の弟子は型の中身には言及していないので、本部朝基の証言だけが松村先生の型の特徴を知る唯一の手がかりとなる。

ナイハンチで、足を八文字に開く型が有ることは、既に御承知のことと思う。この際足のヒラをスボメて、内側に締め付ける様に力を入れることを現今普通一般に教え、且つ世人もこれが正当の如く考えているが、誤れるも甚だしい。この型はもっぱら糸洲翁の流れをくむ方々の教え方で、松村翁や佐久間翁などは、ただ足を八文字に開くだけで力を取る様に教えられていた。

本部朝基『私の唐手術』1932年、22頁。

上記の「八文字はちもんじ」の立ち方とは、つま先を外側に向ける「八字立はちじだち」のことではなく、膝を開いて脚(腿)の形が漢字の「八」に似た立ち方、すなわちナイハンチ立ちのことを指している。糸洲先生はナイハンチ立ちを、膝を内側に締め付けるサンチン立ちのような立ち方に改変したため、糸洲以前と以後ではナイハンチ立ちが変わってしまった。つまり、松村先生や佐久間(佐久真)親雲上は、改変以前の古流のナイハンチ立ちをしていたということである。

「八文字立ち」こと、ナイハンチ立ち

ナイハンチ立ちという呼称を最初に使ったのは、おそらく船越義珍である。のちに船越先生はこの立ち方を「騎馬立ち」と呼ぶようになったので、松濤館では現在ナイハンチ立ちという呼称は使っていないかもしれない。

本部朝基がナイハンチ立ちと呼ばず、八文字立ちと呼んでいるところを見ると、ナイハンチ立ちは船越先生の造語で、もともとは名称がなかった可能性もある。

ナイハンチ立ちの変遷については、以前「ナイハンチの変遷」で詳述したので、そのとき使った写真を以下に紹介する。

このように、糸洲門下でも、松村先生に師事した屋部憲通や本部朝基、また師範学校で屋部先生に師事した遠山寛賢は古流のナイハンチ立ちをしている。船越先生のナイハンチの伝系は今ひとつ明瞭ではないが、筆者は安里伝か泊の影響があるのではないかと考えている。

次に紹介するのは、仲宗根源和編『空手研究』(1934)で、仲宗根源和とのインタビューに答えた本部朝基の証言である。

ナイファンチの型で、松村先生と糸洲先生と異なっているところがある。 ナイファンチの中で、足を膝のところまで内側へあげて元の位置へ踏み下ろすところがある。あそこのところで両先生の流儀が異なっているのだ。

松村先生の流儀は、踏みおろすときに、足を軽く平らに足裏を地上におろすのだが、糸洲先生の流儀は、足のおろし方を力を入れて重く、足裏を平らに下ろさず斜めにおろす気持ちで、強く踏みおろす。これは右足のときも左足のときも同じことである。 次に手を胸の前面に突き出すところも両先生のやり方が異なっていた。一つの拳を側面に寄せてとり、他の拳を胸部前面に横に突き出す型が右にも左にもある。あそこのところの拳の突き出し方が異なっていた。 松村先生の流儀は拳を斜め前に突き出すので、肘がほとんど伸びている。しかし糸洲先生の流儀は拳を平行するように突き出すので肘のところで角に曲げている。これは左手のときも、右手のときも、共に同じである。

上記は、いわゆる「波返し」の動作と鉤突きの動作の箇所を述べたものである。波返しで足を上げて降ろす際、松村先生は静かに降ろしていたが、糸洲先生は強く降ろしていた。また、鉤突きは、松村先生は肘がほとんど伸びていたが、糸洲先生は曲げていたというものである。

鉤突きの箇所は、「一つの拳を(身体の)側面に寄せてとり」とあるので、上の本部朝基の写真の鉤突きの箇所であろう。このとき、肘を伸ばすやり方を筆者はこれまで見たことがない。非松村系統である泊のナイハンチでもそうである。すると、肘を伸ばすというやり方は松村先生の改変だったのであろうか。

なお、いわゆる「諸手突き」の際にも片方の腕を鉤突きにするが、この箇所で両腕をまっすぐに伸ばす突き方は本部朝勇から次男の本部朝茂に伝えられたナイハンチで行う例がある。

本部朝勇がこのナイハンチを松村先生から習ったのか、それとも父・本部按司朝真から習ったのかは不明だが、このように鉤突きの箇所で肘を伸ばすやり方が古流ナイハンチの一部の系統にはあったのかもしれない。

最後は「武士・本部朝基翁に「実戦談」を聴く!」(『琉球新報』1936年、11月9、10、11日)からである。

私達が十二、三の頃に教えられたのと、今とは拳の握り方が違っている。昔は平手だった。突き(拳)は、現在は前方に水流しといって下にさがっているが、昔はそんな手はなかった。真っすぐに、かえって上にあがる心持ちだ突くものだ。これは首里の松村の流れがほんとであると思っている。佐久間先生のと松村先生のは同じ手(型)であった。

上記によると、ナイハンチの拳による突きは昔は平手ひらて、すなわち貫手ぬきて開手かいしゅ)で行っていたという指摘である。また、突く角度も現在(1936年時点)は中段を突いているが、昔は上段気味に突いていて、このやり方は首里の佐久間と松村はそうだったという。

ナイハンチの拳による突きすべてが貫手だったかは不明だが、中段云々の箇所はおそらく下の諸手突きの写真の箇所がその一つだったのではないであろうか。本部朝基の突き方はやや上段に突くやり方である。

なお、ナイハンチで上段を突くやり方は、石嶺流の兼島信栄もそうしている。

石嶺流は兼島信栄先生の尊父の信備氏が有名な石嶺翁から空手を習ったことに因んで命名された流派である。石嶺翁が誰かは不明であるが、松村先生の弟子に石嶺もしくは伊志嶺いしみねと呼ばれる人物がいた。また寒川の石嶺と呼ばれる空手家もいたが、兼島先生は首里寒川町の出身だったので、この寒川の石嶺だった可能性もある。

空手史研究者の金城裕は型の上段突きを体育目的でより安全な中段突きに、糸洲先生が改めたという説を唱えているので、糸洲先生以降にナイハンチも中段突きに改まった可能性がある。

以上の引用箇所をまとめると、松村のナイハンチは、

・ナイハンチ立ちは膝を開いていた
・波返しで足を降ろす際は、静かに降ろしていた
・鉤突きは肘が伸びていた
・突きは上段気味に突いていた
・拳ではなく開手だった

というものである。筆者が知る限り、松村の流れを汲む流派で上記の特徴すべてを兼ね備えたナイハンチを教えている流派は――創作や復元の類を除くと――ないように思う。とすると、純粋な松村のナイハンチは途絶えたのであろう。

貫手は本部御殿手では組手でも使うが、その用法は敵の目を突くなど残酷なものであり、廃藩以降、多くの流派で貫手から拳へ変更して、新時代に即して学校でも教授可能なものにするようにしたのであろう。

いずれにしろ、松村のナイハンチの特徴を述べた本部朝基の証言は貴重であり、他の改変型の原形を考察する上でも大いに参考になるものである。

出典:
「松村宗棍のナイハンチ」(アメブロ、2019年1月27日)。note以降に際して加筆。

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