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ナイハンチの変遷

ナイハンチは空手の基本型の一つである。「型はナイハンチにはじまり、ナイハンチに終わる」とか「空手はナイハンチにはじまり、ナイハンチに終わる」と、古来より言われている。

ほかにも空手の基本型とされているものに、セイサンやサンチンがある。大体首里手や泊手ではナイハンチを基本とし、那覇手ではサンチンを基本とする。セイサンは首里手にも那覇手にも――バリエーションは違うが――ある。

ただし、こうしたステレオタイプ的な分類は、廃藩置県以降、とりわけ明治30年代以降に強まったという点に注意する必要がある。実際には首里手にもサンチンはあるし、那覇手にもナイハンチがあったかもしれない。残念ながら、東恩納寛量以前の古流那覇手は事実上失われてしまったので、かつての姿がどうであったかを推測するのは困難である。

それゆえ、首里手にサンチンはないはずだとか、那覇手にナイハンチはないはずだとかいった先入観は、空手史の研究においては、さしあたり排除しておく必要がある。

さて、下の写真はすべて糸洲安恒門下の空手家のナイハンチである。

それぞれの個性もあり、少しずつ異なっているが、それでもある大きな傾向性を見て取ることができる。それは屋部憲通先生から遠山寛賢先生まで、概ね立ち方は膝を大きく開き、つま先を外側(外八字)もしくは平行にして立っているのに対して、最後の知花朝信先生だけ、膝を内側にしぼり、つま先も内側(内八字)にして立っている点である。

また、前者の右手が掌を正面に向ける、いわゆる「背手打ち」なのに対して(注1)、知花先生だけ掌を上に向ける「背刀受け」をしている点も異なっている。

なぜこのような相違があるのだろうか。それは屋部、本部は糸洲先生以外に直接松村宗棍先生にも師事している。また船越義珍先生はやはり松村門下の安里安恒先生に師事している。遠山先生は松村先生の弟子ではないが、沖縄県師範学校で屋部先生の助手を務め、屋部先生の影響を強く受けている。

つまり、彼らは松村時代のナイハンチの特徴を色濃く残している。それに対して、知花先生は純粋な糸洲世代のナイハンチなのである。知花先生よりやや後輩の摩文仁賢和先生の糸東流のナイハンチも知花先生のナイハンチに近い。

この「糸洲のナイハンチ」は戦前沖縄県の各学校で採用されたので、爆発的に広まり、いまでは沖縄の首里手のスタンダードになっている。

しかし、糸洲先生はなぜ松村先生のナイハンチを改変したのであろうか。一つの推測は、糸洲先生は松村先生以外にも那覇の武士長濱に長く師事したので、那覇手のサンチン立ちをナイハンチに採り入れたのかもしれない、というものである。屋部先生は糸洲先生は「那覇六分首里四分」であったと証言しているので、那覇手の影響がナイハンチ改変の動機だった可能性がある。

ただしこの改変は松村先生には不評だったようである。本部朝基『私の唐手術』(昭和7年)によると、松村先生は糸洲先生のナイハンチ立ちを「亀小型(カミグヮーガタ)」と呼び、

「糸洲の亀小型では、実際立ち合う場合には、すこぶる危険で、すぐ倒されてしまう」

と批判していたという(注2)。

糸洲先生がこの批判をどう捉えていたかは不明だが、いずれにしろナイハンチが松村と糸洲との間で、大きな変化――場合によっては180度違う――があったという事実は心に留めておく必要がある。

とりわけ立ち方は空手の基本なので、立ち方が大きく変わるということは空手の術理そのものが――この場合、首里手の術理が――大きく変わったことを意味するからである。

注1 これを背手受けと受け技に解釈する流派もある。
注2 本部朝基『私の唐手術』23頁。

出典:
「ナイハンチの変遷」(アメブロ、2016年5月21日)。

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