見出し画像

元手と三戦

本部御殿手には元手(もとで、方言でムートゥディ)と呼ばれる基本型がある。一と二の2種類あって、一は握拳で行い、二は開手で行う。下の動画は元手二である。

剛柔流の三戦(サンチン)に似ているが、上原清吉の説明では剛柔流の三戦とは術理が異なっているとのことであった。確かに剛柔流は握拳で行うが、元手は開手でも行う。また剛柔流の三戦では息吹とも呼ばれる独特の呼吸法を伴うが、元手は自然呼吸で行う。ほかにも立ち方や姿勢にも相違がある。

上原先生はこの元手を本部朝勇から習ったのであるが、他の流派に元手という型はないので、筆者は本部朝勇の創作なのだろうかと考えていた。しかし、2007年頃、上原先生の昭和30年代の弟子の方から「元手は当時は三戦と呼ばれていました」と聞いて、元手が実は首里三戦だったことを知った。

ただ当時の三戦といまの元手には相違点もある。現在の元手では、上の動画にあるように三歩進んで反転し、また三歩進んで反転して、さらに三歩進んで……と型のように行うが、この形になったのは、昭和49(1974)年に佐敷町(現・南城市)で行われた第一回本部流佐敷大会の頃であると聞いた。それまでははっきりと定型が決まっていたわけではなかった。

たとえば、壁から壁へと前進して、壁に達するとまた反転して進むという形式でも稽古が行われたらしい。

もっとも当時の弟子の武芸館の比嘉清彦先生によると、定型的な三戦もあって、尊父の比嘉清徳先生も習われたという。つまり、昭和30年代は、上原先生は定型的ものと非定型的なもの、両方の三戦を教えていた。

秘伝型」の記事で述べたように、上原先生は同じ型でも異なる挙動のバリエーションをそれぞれ教えていたので、ありうる話である。他にも「松三戦」と呼ばれる松村宗棍から伝わったという三戦もある。

左から:本部晶子(朝正妻)、朝正、その下朝行、直樹、上原清吉、一人とんで、宮城調常、昭和51年。

実は、宗家(本部朝正)は上原先生以外にも、本部朝勇が三戦を教えていたという話を、沖縄出身の宮城調常から聞いたことがある。

宮城氏は戦前沖縄から大阪に出てきて貝塚市に住んでいた。宗家も子供の頃からよく知っている人物である。この宮城氏が本部朝勇に一時期空手の型を習っていたらしい。そのとき教えていた型の一つに三戦があったという。

また、宮城氏によると、「朝勇先生の弟子の中で、1人才能のある若者がいて、その人は大変な力持ちでした。その人が三戦を行うと、足もとの地面の草がメリメリとめくれていました。」と語っていた。

この若者は上原先生よりは年上だったそうだが、残念ながら氏名は伝わていない。

いずれにしろ、昔の首里でも三戦は稽古されていて、本部御殿手の元手は現在まで受け継がれている首里三戦の一つということになる。

出典:
「元手と三戦」(アメブロ、2016年3月29日)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?