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松村宗棍の型

先日の記事で、筆者は松村宗棍から伝わったとされる型はいくつもあるが、それらのうち、本当に松村先生が教授したと明言できる型は少ないのではないかと述べた。

松村先生は佐敷に隠棲していた「屋比久やびくしゅ」を訪ねて、「古流の唐手」の教えを受けたとされる。しかし、その動機は以下のものであった。

松村翁の如きも壮年時代まではもっぱら実地の経験ばかりして古流の唐手に通じなかったため……

「糸洲武勇伝(2)」『琉球新報』大正4年3月16日。原文は旧字旧仮名遣い。

「実地の経験」とは何を意味するのであろうか。普通に解すれば、組手や掛け試し(試合)という意味であろう。つまり、松村先生は若い頃は組手や試合に明け暮れていたので型にはそれほど詳しくなかった。それゆえ、ある程度歳を重ねた頃に屋比久の主を訪ねて古流の型を学び直したのであろう。

以前から、空手には型と組手のいずれを重視するかで対立があるが、どうやらこの対立は琉球王国時代まで遡り、松村先生は組手重視派だったようである。

残念ながら、松村先生が屋比久の主から何を学んだかまでは、上記の記事からは知りえない。実際のところ、松村先生が確実にこの型を教えていたと言えるものは何であろうか。

松村先生は著書を残されなかった。彼が弟子の桑江良正に宛てた巻物が現存しているが武道家としての心構えを述べたもので、型については触れられていない。つまり本人の証言がないわけである。となると、直弟子の証言が史料価値としては一番高いものとなる。以下に直弟子が証言している松村先生の型を列挙する。

・ナイハンチ(初段)……本部朝基
・五十四歩、クーサンクー……義村朝義
・五十四歩……喜屋武朝徳

松村先生の型と確実に言えるのは上記のナイハンチ、五十四歩、クーサンクーの3つだけである。この3名は戦前に著書や雑誌、新聞記事でこれらの型を教わったと証言している。また型以外に、本部朝基は組手を、義村朝義は剣術をそれぞれ松村先生から教わった。

もちろんこの3人は他にも型を習ったかもしれない。ただ文献に記述がないものは証明不可能なので、実証的な観点からはこの3つの型が松村伝と確実に言えるものである。

ちなみに3人とも御殿殿内うどぅんとぅんちと呼ばれた大名でーみょー家の出身で互いに親戚同士でもあった。そういう意味では、彼らが10代で上記を学べたのは、首里の上流階級に属していたという事実も関係していたのかもしれない。

前回の記事で述べたように、本部御殿には松村先生を含む著名な先生方がヤカー(家庭教師)として交互に武術を教えに来ていた。もちろん、謝礼を払って招いた。

いずれにしろ、松村宗棍の型を考える際は、上の3つの型が出発点で、これら以外の松村伝とされる型は、いったんエポケー(判断中止)して、それら型の来歴が本当に正しいかを見極める必要がある。

参考文献:
本部朝基『私の唐手術』東京唐手普及会、昭和7年。
義村仁斎「自伝武道記」『月刊文化沖縄』2-8、9月号、月刊文化沖縄社、昭和16年。
喜屋武朝徳「空手の思出」紙名不詳、昭和17年。

出典:
「松村宗棍の型」(アメブロ、2017年1月20日)。note移行に際して改稿。


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