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ボケて逝った祖父への手紙

ボケるが差別用語にあたり今は認知症という呼称が使われています。でもやっぱりあの当時の祖父はボケていたという表現がしっくりくるのであえて使います。

お爺ちゃんへ。

僕が中学生の頃、亡くなったお爺ちゃん。畳の上で家族に囲まれて旅立っていった日はいまでもはっきりと思い出せます。

あの時は、死というものが怖かったけど、今では理想の逝き方だなと思います。

お爺ちゃんが亡くなった時、悲しさ6割、ホッとしたのも4割ありました。

僕とお爺ちゃんはよくケンカしましたよね。

お爺ちゃんが無くなる3年前、お祖母ちゃんが亡くなってから、お爺ちゃんは次第にボケていきました。

パーキンソン病を患わっていたお祖母ちゃんは次第に歩けなくなり、自宅介護から入院し、病院で亡くなりました。

夜中にお爺ちゃんが怒鳴りながらお祖母ちゃんの尻を叩いていたのは、小学生の僕には中々こたえました。

今思えば、お爺ちゃんが一番悲しかったのだと思いますし、その発散方法もわからなかったのかなと思います。

それでも、入院したお祖母ちゃんを毎日お見舞いに行き、亡くなった後一気にボケていった様を見ると愛情というのは簡単ではないのだと思わされます。

お祖母ちゃんに怒っていたお爺ちゃんもつらかったですが、それ以上にボケていったお爺ちゃんを僕は心底うっとうしく思っていました。

今では認知症という言葉があり、その症状なども共有がされているので少しは理解できるかもしれません。当時は、老人は次第にボケるというのが当たり前であり、今よりライトな感覚でした。

その裏では壮絶な家庭もあったでしょう。幸い、お爺ちゃんは僕を忘れたりだとかもなく、足腰も確りして食事もとれていたので当時の「ボケる」の範囲だったのは良かったと思います。

中学時代、学校からお爺ちゃんが救急車で運ばれたと連絡が着て、結果を聴いたら昼から焼酎飲んで、自転車が側道にハマっただけだったのには閉口しましたが。

風呂に入るのを面倒くさがって、夏場は臭かったですし、たまに入ると風呂の周りに茶色い垢がびっしりと付きました。

サイズが調度よかったので、年がら年中姉の中学時代のジャージを着ていて近所でも有名だったのだと思います。高校生で多感な姉は複雑だったと思います。

たまに散髪に行くとあの臭いお爺ちゃんがきたみたいなことを言われていたようですよ。

8歳上の姉が僕が小学6年の頃、一人暮らしを始めました。それからお爺ちゃんが亡くなるまでの2年間、両親共働きの僕は学校から帰ったら、両親が帰るまでお爺ちゃんと二人きりでした。

基本的には、会話もしませんし、話したくもなかったので僕はお爺ちゃんのいる1階を避けてすぐ2階に行きました。

小学生の頃は友達が来ると、夕方、お爺ちゃんが「帰れ!帰れ!」と怒鳴り込んでくるので部屋にカギを締めて遊びました。

ドアをガンガンに蹴りながら、「帰れ帰れ」と叫ぶのを聴きながら友達とスト2をやっていましたが、家の方がよっぽどバイオレンスでした。ある意味友達もよく帰らなかったなと思います。

完全に無視して遊んでいると静かになり、やっと1階に降りたかと思いましたが、いきなり窓がドンドンなり始めて何事かと思ったら、祖父がベランダから屋根を伝って回り込んできていました。

僕は「お爺ちゃん死んじゃうよ!!」と叫びました。お爺ちゃんは「お爺ちゃん死んじゃうよ!!」と叫びました。

お爺ちゃんも戻るに戻れなかったんでしょうね。

でも、1階までお引き取り願い、普通にその後も遊びました。

次の日、友達がその話を学校でしたのか、僕のお爺ちゃんを見ようツアーのような形で、頻繁に僕のうちに遊びに来るようになりました。

僕は、遊びに来るたびお爺ちゃんと喧嘩したりしてましたが、祖父と孫が壮絶な口喧嘩をしているさまが面白いらしく、しまいには僕も喧嘩の時の言い回しを工夫するようになっておりました。

僕がラップ好きな原点がここにある気がします。

今思えば、お爺ちゃんとしては息子夫婦は自分より成功して、新築の家を建て、孫には友達含めて舐められる、最愛の妻は介護した後旅立たれ、自宅ながらも孤独だったのだろうと思います。

その辛さがボケを加速させていったのだと思います。

そんな喧嘩ばかりの日々を僕が小学6年から中学2年まで送りましたね。僕は反抗期がなかったと両親に思われているのですが、思えば思春期の感情をお爺ちゃんと喧嘩することで発散できていたのだと思います。

お爺ちゃん、僕にも息子が生まれました。

先日、お爺ちゃんが戦争へ行った時の写真を見せました。

アルバムには虫食いがあるし、白黒で色あせていて、よくわからないけど、息子も興味深く見ていました。

小学校中学年の時、学校の宿題でお爺ちゃんから戦争の話を聞きましょうというものがあり、聞いてみたらお爺ちゃんは「ずどどどどずばばばばんだった。」と言い、僕は(腕を撃たれた話とか聞きたいのに、なんだそれ。全然参考にならないよ。)と思いましたが、今にして思えばそれが真実だったのだと思います。

一般的な祖父母は優しいみたいなイメージとはかけ離れているけど、戦争という厳しい世界で戦ってきたお爺ちゃんにとって12歳を超えた僕はもう大人みたいなものだったのかもしれません。

子供の頃はすごくかわいがっていたなんて話を聞くと、本当かなぁなんて思いますが、薄っすらとした記憶からふとそういえばおままごとしたなと思い出し暖かい気持ちになります。

お爺ちゃんが旅立った時、内心ほっとしてしまった僕は自分に嫌悪感を抱きましたが、お葬式の時みんな笑顔が見れてみんなも同じかと思いそんな罪悪感も薄れました。

あれから、何度かお葬式に出ましたが、お葬式で笑顔になる式はとても素晴らしいものだと思います。残された人が後悔ないよう旅立っていくというのは残された人への贈り物なのかなと思います。

お爺ちゃん、たくさん喧嘩をしたお爺ちゃん。僕の鬱憤を受け止めてくれてありがとう。

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