見出し画像

「出来事の演劇」とは何か ーマレビトの会『福島を上演する』


マレビトの会という松田正隆が代表を務める劇団があります。現在(2018/10/27)、フェスティバル/トーキョーのプログラムで 『福島を上演する』を東京芸術劇場シアターイーストで上演中です。
2013年の『長崎を上演する』からは、俳優の声を張らない発話、おろそかな身振り(マイム)、衣装や大道具、小道具を用いないことなど、本来「演劇」と呼ばれるものに必要だと思われていた要素を徹底的に排したスタイルを確立しています。それはまるで素舞台で行われるコントのようでありながら、マレビトの会だけがもつ特有の演劇的な時間が流れるのです。現在の世界中の演劇界の中でも、孤高の存在と呼べるでしょう。


では、マレビトの会で行われていることが何かというと誰もが一言で言い表すことが難しいでしょう。おもしろいと感じても、それを言表することが妨げられているような感覚を多くの人がもっているように思います。今回はそのことを考えたいと思います。
現在のマレビトの会で行われている演劇を松田さんは「出来事の演劇」と呼んでいます。まずはこの言葉について考えてみましょう。「出来事の演劇」は以下のように宣言という形で説明されています。

演劇の上演が、現実の出来事の模倣にとどまることなく、新たな意味の生成となること。これを私たちは「出来事の演劇」と呼ぶ。
その空間では、身体や物体が変形を被るようなアクシデントや予想もつかないハプニングが起こるのではなく、「言葉と見えるもの」との結びつきが改変され、得体の知れない私たちの「生」そのものが創出されることが起こるのである。「生」そのものは未見の様相の持続を呈するが、演劇という厳密な構想力によって生まれたものであり、それは決して無秩序やカオスに陥ることはない。
出来事の演劇は、俳優の演技と戯曲の再現から縁を切る。演劇の空間は、俳優の演技や戯曲に書かれた関係を見せる場所ではない。舞台の壁やそこにある身体は、演技や戯曲の表象に還元されない「力」を生み出す素材であり身振りである。
「生」と「力」は、演劇において「言葉と見えるもの」を出来事の次元につくり直す。そのとき、石の中に流れる水があるように、過去と現在は混在し演劇の時間が顔を出すのだ。
(「出来事の演劇」宣言、松田正隆、<http://www.marebito.org/text/engekiron2017.pdf>)

わたしたちが考えなければならないのは、なぜこのような宣言をしなければならないのかということでしょう。それは他の演劇が「出来事の演劇」ではないからです。この他の演劇とは、まさしく「現実の出来事の模倣にとどまる」演劇です。この言葉が含有するのは、物語を中心とした商業演劇、小劇場、あるいは、反動的な前衛演劇のあらゆる演劇の範疇を含んだ上で、単なる戯曲や作家の想像力の再現、表象にとどまる演劇を指しています。この再現、表象からその奥行きへと向かうことが重要であるというのが最初の一文の趣旨でしょう。これは現代演劇への厳しい批評とも読むことができます。

次に、その「出来事の演劇」は「『言葉と見えるもの』との結びつき」によって生じると書かれています。これは戯曲を上演するという一般的な演劇の方法とは一線を画するという宣言でもあります。一見すると、単なる戯曲の上演のようにみえますが、その試みは以前にもまして前衛性、実験性の高いものです。それは俳優の所作もまた同様です。
重要であると同時に難しいのは、ここで「生」そのものや「力」という言葉が用いられることでしょう。どうしても、こうした言葉は感覚として掴みづらい人もいるでしょう。松田さんの過去の言葉を引用すれば、次のように言い換えることもできるでしょう。

戯曲に収斂するのでも、演出家の美学をスペクタクルとしてみせるのでもなく、いろんな要素を総合して作品としての「総体」つくる作業もしつつ、宇宙とか生命といったレベルの「全体」にも開いていくようなつくり方
(平田オリザ×松田正隆
演劇の全体(ユニバース)と総体(アンサンブル)<https://www.festival-tokyo.jp/17/ft_focus/ft17talk_matsudahirata/>)

<マレビトの会 活動方針>
・無償で無尽蔵な実験精神をもつこと。
・あらゆる既存の価値観にとらわれず、理解し難い特殊な場所や状況を受け入れ、作品を創作すること。
・わたしたち自身や鑑賞者の立ち位置をゆるがすような「絶対的なもの」へ捧げる作品を創作すること。
・国家や共同体などの中心性を持つ情報管理社会に搾取されることのない周縁性をもつこと。
・誰もが参加可能なゆるやかでささやかな祝祭空間を演劇の場に出現させること。
・演劇における「時間」のことを考えること。
<http://www.marebito.org/marebito.about.html>

誤解を恐れずにいえば、こうした超越的な何かがあり、そこへ向けて演劇作品を創り上げる、そういうようにわたしには思えます。この超越的な何かは、演劇であれば「出来事」であり、写真(図像)であれば「自然」、哲学であれば「崇高」という言葉に変態することができるといえるのではないでしょうか。ともかくも、この一点において現代の演劇の中でも特異な集団であるのは間違いありません。

舞台があり、抑制された俳優の所作、言葉、身体があり、戯曲がある。そこに観客がいて、私たちは言葉にできない魅力を感じ取ることできる。これらが作品における要素の全てでしょう。きわめて簡潔です。では、それらの諸要素から、「表象の総体」から「生の全体」へと通じる回路はどのようにしてつくられるのでしょうか。

松田は「いま・ここ」と「いま・そこ」という表現を用いて、俳優の存在について説明します。舞台上に出てきた俳優と観客は、ここ、と、そこの現実の延長線上の関係です。そこで俳優が「雨が降ってきました」と言います。すると、俳優は現実とは異なるもう一つの時間を持ち始めます。確かに、「いま・ここ」という現前の世界に俳優も観客もいながらにして、同時に、「いま・そこ」という演劇的な時間も共有するという二重性が生まれます。ほとんどの演劇では、ここにある境界線は無視され、「いま・ここ」と「いま・そこ」が一致し、劇的な世界へと観客が巻き込まれる方向へと向かうところが、マレビトの会ではその不一致にこそ、「出来事」の契機を見出すわけです。これがまさに「石の中に流れる水」であり、過去と現在が混在する時間の流れです。
「いま・ここ」と「いま・そこ」の隔たりは、「演劇の皮膚」とも形容されています。この薄皮一枚は、些細なことで消失してしまいます。しかし、マレビトの俳優たちはこの薄皮に包まれるように繊細な「人」であり続けている、そんな印象を受けます。つまり、演技という言葉では壊れてしまう、微細な変化の集積なのです。その表象を声を張らない発話、おろそかな身振りと言っているに過ぎないでしょう。
「いま・そこ」は俳優から、しだいに、長崎や福島が到来し、「いま・そこ」のはるか奥の深淵から無音の音と呼びたくなるような静寂に満たされます。まさしくそれは「生」や「力」と呼ばざるえない超越的な何かが到来するのです。

マレビトの会関連の文章を読んで書いていたら、端的なまとめになっていました。ですが、表面的な所作の問題で語るよりもこうした根源的な思考からすべてが生成されていることこそがマレビトの会の魅力だと思います。それは、芸術全般において示唆的でしょう。詳しく知りたい方は、上記の「出来事の演劇」宣言のリンクからお読みください。
すでに、2公演終わりましたが、とてもおもしろいです。初日の『父の死と夜ノ森』は、演出と戯曲が完全に噛み合い、出色の出来でした。

今年の公演もまた、粛々と「出来事の演劇」が行われています。ぜひ。


(ヒント)

・自分が生まれる前の両親の写真をみたときの居心地の悪さについて書いたが、「いま・ここ」と「いま・そこ」の問題に通じるものがある。


・「被写体全員がみんな違う方向を向いている」という写真の人々の佇まいに一瞬マレビトの会が頭をよぎった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?