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日本一自由な学校で、日本一熱い文化祭をするということ①

こんにちは。「記録を残す」ということを大切にしたい大学生です。
最近は慣れない企業分析ばかりをしていたのですが、少し疲れてしまったので、中高時代のことを振り返っていました。

僕は都内の某中高一貫校の男子校に通っていたのですが、そこはいわゆる校則のない「自由な学校」でした。
そこの文化祭が大好きで、中学受験をしたのは文化祭に一目ぼれしたからっていうのもあって、もちろん僕は「文化祭実行委員会」に入っていました。

その文実では、実務をこなすことは当たり前でして、もっとその先の「文化祭への熱意」とか「自分は文化祭をどうしたいか」を求められていました。

なんで急に中高の文化祭の話?
となるかもしれません。

僕は大学に入ってこれといってやりたいこともなくダラダラ過ごしていて、なんか「情熱」を見失ってしまっていました。

そこで高校2年生の最後の文化祭が終わった後に書いた文章「文集」を見つけました。この「文集」は文実に参加していたもののうち、有志で、書きたい文章や引継ぎを書いて、冊子にしたものです。僕も文実に長く所属していた身として、文章を載せました。

そこには、「文化祭」に力を注いだ僕の、まだ若くて体力にあふれていた僕の、ありのままの「情熱」が記録されていて、なんだか懐かしくなりました。

今回はそのごく一部をここにあえて「原文のまま」でコピペともいます。


僕の中高でない人は正直何が書いてあるかよくわからないと思いますが、あえてそのままここに書き記します。
「長会議」とは、ようは文実のそれぞれの部門の長たちが集まる、文実の閣僚会議のようなものです。僕たちはひたすらに、「誰のための文化祭か」「文実は何のためにあるのか」などといった思想を語り合っていました。
最近はなんだか、そういった物事の「本質」について考えることをやめてしまっている気がします。(具体的にいうと、この「長会議」では、「どういった体制で文実を運営するべきだったのか」「だれが文化祭の代表か」について、自分の考えをひたすらに語っています。)

ちなみにこの文章は、「人生の記録」を残さず生きてきた僕の、唯一自分の言葉で書いた「記録」になります。あの頃のように情熱を取り戻したいですね。またほかの部分もほかのnoteで書き記していきたいです。

長会議(これは長い文章の項目の一つです)

七十の最大の特色はこの長会議制度だと思う。もともとは、十局の長と委員長議長の二十二人で構成されていた。
 もちろんそんな会議に意味はなくて、ただの実務会議でしかなかった。三学期が終わって、やっと真剣に話し合うことに決めた。

「ジャンパーについて」
 そもそも長会議制度はこのジャンパーについて話し合うことがきっかけでできたはずだ。ジャンパーがだれを着るか。

 まず普通の考え方でいえば、ジャンパーとはスタッフが着るものだ。これは文化祭の常識。でも「スタッフ制」が麻布でのジャンパーの意味を変えた。先代の人たちがどういう思いでジャンパーを作ったかは過去の文集を見ればわかる。じゃあ俺らはどうすんの?てとこから始まった。
 あこがれてるやつも、過去の慣習を尊重するやつもみんな意味を持たせたがっていた。俺自身は偏った意見を持ったことがないので、どの意見も間違っていないと感じた。いや、人の意見を正誤で判断することが間違っている。つまりどの意見にも賛成だった。まあ俺みたいなやつが一番クズかもしれないけど。
 ただ、やたらと「スタッフ制」や文集についてとやかく言ってくるやつがいた。

じゃあここで「スタッフ制」についての俺の意見を述べよう。
 昔はあこがれていた。もちろん内情は全く知らない。けれど、聞いた話では、俺に向いてるもののように思える。自分の偏った意見がもてない俺にとって、全員で同じ場所に向かっていき、そのためには時間をかけ、一人一人がそれについていくっていう体制は素晴らしいものに思えた。ものに従うのは得意だった。本当は、芯をしっかり持っていないとそれは洗脳に過ぎないということなんだけどね。
 でもよく考えていこう。「スタッフ制」にあこがれているやつはいっぱいいたけど、その制度は崩壊したんだ。「先代の人たちは俺らの何倍もの時間をかけて、俺らの何倍もの熱意を文化祭に注いだ」と、主張するやつもいた。じゃあ、なぜ彼らは何年も不祥事を起こしたのか。そして気づいたよ。文集でしか見れない彼らは、当時は同じ高一だったんだと。何個上の先輩だと思うと、何もかもがすごく思えるんだけど、彼らは俺らと同い年に同じ文化祭に取り組んだだけだ。あったこともない人に敬意を表すのもばかばかしい。結局言い方を変えれば洗脳とも呼べるその制度は別にいいものだとは思えなくなった。文集をやたらと出してくるやつはめっちゃいたが、文集こそ洗脳の象徴だ。俺なんかは、文章の理解力もほとんどないし、同い年が書いた文章にそこまで感動を覚えなかった。文集には言葉しか映らない。

 あともう一つ。この学校は自由であるといわれる。それは校則とか決まりに縛られないってだけじゃない。表面上はそうだけど、もっと根本的にこの学校は考え方とか意見とかにまったく縛られていない。それぞれが一つの思いをもって、それぞれの団体に所属することに誰も文句は言わない。
 意見が自由である場合、必然的に左に傾く。自由とは常に権力にあらがうことだ、ていうのは誰かの言葉だったような気がするが、自由は常に革新的である。なぜなら、千八百人いたら千八百人の意見があって、その全員が納得するものなんてないんだから。誰かがどこかで反対するだろう。つまり、麻布においてかなり保守的ともいえる「スタッフ制」は似合わないんだと思う。俺の想像する「スタッフ制」は弾圧的で洗脳的なイメージがあるんだけど、不祥事が起きてる時点で、その不祥事に反対していたスタッフは絶対いたはずだ。じゃあ「スタッフ制」は誰もが納得していたわけではなくなるし、そんなにかっこよく思えないだろ。
 だから、大事なのは各代で各代のやり方を見つけることだ。誰もが納得する制度なんて不可能だろう。でも妥協するとしたら、いい制度はきっと見つかる。これが俺なりの「過去を模倣するな」の解釈だ。

 話を戻そう。そういう点でいえば、「長制度」は俺らなりの形だったんじゃないかな。局内の争いもあったし、実団長の扱いもあったし、そもそもジャンパーを作るかどうかでもめていた。でも象徴的なジャンパーはみんなが作りたがる。俺だって、着ないなんて選択肢はもともと考えていなかった。ジャンパーを着られていなかった代もあるけれど、着たい気持ちがあるなら、あとは頑張りようだと思ったし、それで全員が納得した。
 「長制度」は志願制だ。ようは個々人の責任に任せるということだ。もちろんそれは同輩内だけ。後輩もいれたら、それは過去の模倣になる。
 だが、志願制というやつは気に食わないやつもいるってことだ。もちろん人としてきらいとかじゃなくて、認められないということ。

でも、俺は人を認められないということに納得できなかった。俺はどちらかというと認められていない側なんだけど。おそらくは、局に対する姿勢とか、いままでの出席率だとかで俺を含めた数人は認められていない。お互いがしょっぱいと言い合っていた。
 俺は出席率だけで語ってほしくないと思っている。後輩時代局会に出まくってたやつが、局への愛も強く見えるし、それだけ時間を割いたことになる。
 ただ俺は小学生のころから文化祭が大好きだった。中一の時もまっさきに地下柔に行った。そんな俺からしてみれば、むしろ、高校生になるまで文実の仕事に触れていなかったやつのほうがよっぽど「文化祭」自体に対する愛が弱いと思うことを理解してほしかった。人それぞれでものの見方は違う。局会に重きを置いているやつもいれば、どういう文化祭を作りたいかに重きを置いているやつもいるってことだ。それを出席率だとか、「本音」とかで判断してほしくなかった。出席率は低いかもしれないけど、じゃあ長年積み上げてきた文化祭へのこの思いはどうする。見えないところにこそ愛や熱はあるし、伝わる人には伝わるが、多くには伝わらないんだろう。
 結局志願制というのは、俺にとっては最もいい選択だったと思う。二十一人がいて、二十一人が全く違う形で文化祭にかかわってきたのだから、それを否定されるいわれはない。
 大事なのは自分の文化祭への情熱を自分がちゃんと信じることだ。


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