東京ドームの野球観戦にはレモンサワー。人生模様の裏表は僕の変化へ続く次の25年へ。
「なるほど。では、君の新しい名前をお祝いしに一緒にベースボールへ繰り出そうではないか」
彼は東京ドームへ向かう車の中で運転しながら僕にそう言った。
僕は、今後僕を名前で呼ぶ時は「コニシ」と呼んで欲しいと彼にお願いしていた。僕にも40年近く慣れ親しんだ名前が存在していたのは確かである。だが僕の本名は、あだ名すらもその呼びやすい名字のために「ちゃん」を付けただけの簡易的なものだった。名字で呼ばれ続け名前で呼ばれることがほとんどないまま過ぎてしまった。
「頼むよ。君がポップという名前をもらったのは20歳過ぎてからだろ。僕はそれを見ててとても羨ましかった。君はそれまで『ポップ』ではなかったからね。僕は君を15歳から知っているが僕の中での君は、ポップという名前で呼ばれる君とはまるで別人だ。意識的なのか無意識なのかは知らないが、君はポップを演じている部分があるだろ」
ポップは、少し考えながらも頷いた。
「君の言う通りかもしれないな。それは、僕自身が『ポップ』を作り上げた20年によるものかもしれない。皆が求めるポップを演じているかもしれないな。君が40歳過ぎてから違う人生を歩みたいという話は昔から聞いていたから、すでに違う自分を演じている先輩として敢えて言わせてもらうなら『コニシ』には、自分からすり寄るなよ。まずは名前をしっかり自分の一部にするんだ」
車は、東名高速を終え首都高に入り飯田橋を目指していた。僕とポップは年に数回スポーツ観戦を楽しんでいる。今回はたまたま野球観戦のチケットが当たりナイターだったので家族ではなく、ポップと観戦することにした。
「『コニシ木ノ子』は、いったい君に何をもたらすかね。今日それがわかる。楽しみだ。ちなみに僕はもうお酒を呑みたくて仕方ないから今日は東京に泊まる。つまり帰り道は、君は電車ということになるね」
「そういうところだ。君のそういうお酒中心の行動予定は、『ポップ』ならではだ。普段の君ならまずそういうことをしない。そのキャラをとても羨ましく思うよ」
ポップは、下調べ通りに東京ドームから徒歩圏内のホテルにチェックインをし、ホテルから一番近いコインパーキングに車を停め準備を整えた。
「一応、2人の宿泊予定にしといたさ。一応ね」
それは、僕が泊まる予定を示唆しているのか、はたまた東京を満喫する予定なのか知らなかったが、一応答えた。
「どちらにしろ、検討を祈る」
久しぶりの東京ドームは、平日なのに活気に溢れていた。どうやら、スポンサーデイみたいで各所から関係者などが招待されている感じだった。僕達は、チケットを引き換えて東京ドーム3塁側2階自由席へと進んだ。グラウンド全体を見渡せるその席は、お酒と野球の雰囲気を楽しみに来た私達にとっては大満足の席だった。
東京ドームは、キャッシュレス決済のみになっていて現金は必要ないみたいだった。席を決めようとした時に僕達は自然とアイコンタクトをした。それが出来る可能性は低いと思ったが、やらないという選択肢は存在しなかった。
自由席で比較的まだ混んでいないエリアを探し、僕達は端から2席を飛ばして3、4番目の席に座った。これは隣に誰が座るかの一つの賭けである。僕は、混み始める全体の様子を見ながらも隣2席を『待ち合わせ』ですよ的な雰囲気を出すことに成功している。
当然あとからやって来る人々は、そこを見ながらも座らない。念のために書いておくが、雰囲気と時間を見て必ず迷惑にならないようにしていることだけは書いておく。
プレイボール30分前にはそこの席を解放するので賭けなのだ。
階段脇から2人の女性が仕事帰りの装いで、席を探しながら両手いっぱいに食べ物と飲み物を持っているのを目にした。
「コニシさん。彼女達荷物大変そうだな」
「ポップさん。僕もまったく同じ言葉を発するところだったよ」
僕は、さりげなく『人がいっぱいになってきたからこの席もう少し詰めようか』の演技をしてポップの方に寄った。そのさりげなさに微塵の疑いも感じることなく、仕事帰りの女性達は僕達の横に座った。
人を確実に誘導出来ることを知った。
過去に何度もこの作戦をしながらも一度も達成されなかったことがこの瞬間達成されて、2人とも感動で胸が一杯になり、見たこともない笑顔が溢れた。
僕達が行く観戦ではなぜだか、女性と隣になったことが一度もないのが伝説だった。今この瞬間にもしかしたら僕達を見て女性と一緒に来ていると勘違いしてくれている人がいるかも知れないと想像を膨らませると涙が出そうだった。
「コニシくん。君の名前イケてるんじゃないの」
「ポップくん。まだ焦るなよ。僕はこちらから『コニシ』にはすり寄らないよ」
仕事帰りの女性達は、ビールを呑みながら初めて野球観戦に来たことを話している。斜め前には同じ会社の集まりのような人達が10人くらいで固まっている。ビールの売り子さんは、抜け目なく集団を見つけると「人数分でよろしいですか」と可愛く微笑んでいる。
一番偉い人の風格を持つ人が、「もしかして現金使えないの?」と大声で騒いでいる。どうするのだろうと見ていたら、代わりに次に風格を持つ人が「キャッシュレスですよ。代わりに払いますよ」と言って全員分払っている。
「コニシさん。とんでもないザルな演技を見たな」
「そうだなポップさん。演技とは何かを教えたいくらいだ。でも考えてもみろよ。あれを払ったら10杯で9000円だぞ。あの分かりきった演技に乾杯したいわ」
一番偉い風格を持つ人の払いたくないザルな演技を肴にしながらゲームは、プレイボールを告げる。久しぶりの野球の雰囲気に酔いも回った。
レモンサワーしか呑めないポップは、レモンサワーの売り子を探す。中でも、缶からではなく、樽からレモンサワーを注いでくれる売り子を探しているのだ。
「可愛い売り子を見たらまず自分の目を人差し指と中指で指すんだ。そして『見てるよ』といいながら可愛い売り子を二本指で指すんだ」
「それは、一体なんなんだい?」
僕はポップに聞いた。
「よく知らないが娘がやってるんだ。たぶん流行っているはずだ」
小学校一年生を迎えたポップの娘が言うのだから流行っているのだろうと、僕は従った。
僕の二本指は、とても可愛い売り子さんにその気持ちも全て届き、呼び寄せることに成功した。
「2杯ですか?」
流行りであるはずのジェスチャーが全く知られていないことに愕然としたが、たしかに僕が指した二本指は、そうとられても何も不思議ではなかった。僕はレモンサワーなど、10年以上飲んでいなかったが、可愛い売り子さんのスマイルを否定することなど出来るワケもなかった。
「当然2杯だ」
「今日は、どちらの応援ですか?」
「どちらかというと君の応援だよ」
ポップは、にこやかに可愛い売り子さんに恥ずかしげもなく伝える。
「えっ、じゃあ必ず私から買ってくださいね」
可愛い売り子さんは、今日一番の笑顔を見せてくれた。汗をかきながら一生懸命の笑顔は可愛いのだ。
いつの間にか、押し出しで1点が入り、尚満塁だった。
「人生で初めて、『君の応援』なんて言ったよ」
「その言葉を借りるなら、人生で初めて、『君の応援』なんて言っている人を僕は見たよ」
『乾杯』
満塁ホームランが出た。5対0になった。まだ一回表。ゲームは始まったばかりだった。隣にいる初めて野球観戦に来た仕事帰りの装いの女性達が初めてみたホームランに興奮していた。
「お酒足りないね。レモンサワー呑みたいね」
2人の女性が僕達のレモンサワーに刺激されたのかは知らないが、レモンサワーを買おうとしている。彼女達が呼び寄せたのは、缶のタイプのレモンサワーの売り子さんだった。
「お姉さん。僕は今日4杯レモンサワーを呑み比べているんだ。美味しいレモンサワーを知っているから缶に進むにはまだ早いね」
「えっ、そうなんですか?じゃあ教えてください」
にこやかに答える女性を見てポップはご満悦だったが、缶の売り子さんが困っているので、僕は答えた。
「じゃあとりあえず、私に1つくれるかね」
僕は普段飲まないレモンサワーに二回目のこんにちはをした。
ポップが応援している売り子さんを呼び寄せ、隣の女性達の分まで買ってプレゼントし、皆で乾杯した。
僕は、これは観戦デートだ。これを観戦デートと言わずにいつ言うんだと思いながら楽しんでいた。
ゲームは、進む。
「東京が地元なのかい?」
僕は、聞いた。
「いえ、神奈川です」
ニコニコと答えてくれる。
神奈川県民にとってこの答え方は、ある種の正解である。それは、『ヨコハマ』ですと、聞いてもいないのに『ヨコハマ』アピールをされるのを僕達、伊勢原市民は同じ神奈川県民として是としないからである。
「神奈川ってことは、ヨコハマじゃないの?」
「いえ、ヨコハマなんですけど、ヨコハマと言えるような場所でもなく、ほんとハジッコなんです」
こんなにおしとやかなヨコハマ市民が存在するとは、まさに青天の霹靂だった。それだけでもう完全に好きの部類に入っている。
「私達も神奈川なんだけどね、では、神奈川の知っている街言ってみようか」
「そうですね。鎌倉、海老名、藤沢、小田原、箱根」
可愛い声の女性達から伊勢原という言葉は、最後まで出てくることはなかった。やはり僕は『ヨコハマ』を好きになるのは難しそうだ。
ゲームは、毎回のようにホームランが出る展開に、楽しさが倍増していた。
「お兄さん達は、同じ会社の人ですか」
ふいに聞かれた。
「高校からの同級生だ。もう25年くらい一緒になる」
「えっ、私達中学の同級生なんです。もう10年くらいです。私達もお兄さん達みたいに25年続くかな」
計算すれば、彼女達の年齢を知れそうだったが、なぜだかそんな気分にはならないので僕達は真面目に答えた。
「続くかはわからないけど、少なくとも私達は、お姉さん達の関係が続くのを願っておくよ。25年には25年の良さがあるからね」
歓声に紛れながら、転職したこと、やりがいは前職の方があったが、こういう自由な時間を作れて軀も精神的にも楽になったこと。友人と遊ぶ元気も湧いて来てようやく来れたことを教えてくれた。
それは野球を見ながら、野球を聞いている感覚だった。東京ドームで良い感じの空気が流れていた。
何杯目かのレモンサワーを呑みながら、塁は満塁になっていた。
「ここでホームラン出たら面白いけどな」
それは、人生で初めて見る一試合での2本目の満塁ホームランだった。
「こんなにホームランばっかり見れて最高です。そろそろ帰らないとまずいので」
彼女達は、帰ると言う。
「コニシさん。ポップさん。ありがとうございました。ごちそう様でした。こんなにおしゃべり出来て楽しかったです。また、野球観戦で会いましょうね」
帰る女性達を見ながら、なんて哲学的なことを言うのだろうかと考えた。また野球観戦で偶然ばったり隣に座り会う確率を考えながらも、同じ試合で2度も満塁ホームランを見れるんだからあり得なくもないかと考えていた。
「コニシ木ノ子くん。君はその名前だとスラスラ女性とおしゃべり出来るみたいだね」
「ポップくん。僕の変化に気付いてくれて嬉しいよ。変化は自分から求めるものだね。このレモンサワーのようにね」
ポップが応援している売り子のお姉さんが叫んでいる。
「今日最後の販売です。お兄さん達いっぱい買ってくれてありがとうございました」
僕は人差し指と中指で自分の目を指してから、売り子さんを呼び寄せた。
なんのはなしですか
彼女達が帰ったあとは、それが当然のように0が並んでいた。僕は、帰りに1人で電車に揺られながら、コニシ木ノ子として悪くないスタートだと考え、ホームランとレモンサワーを振り返った。
そしてポップの夜の東京の結末が気になったが、次に会った時でいいだろうと思った。
それこそが、さらに今後25年続く秘密だと考えた。
ポップの誕生編↓
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。