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難しいけど甘えたい-「甘え」が持つポジティブな効用について

…序文…

『「男の子の育て方」を真剣に考えてたら夫とのセックスが週3回になりました』(田房永子)を読んでいて、著者とシンクロした瞬間がある。
行き詰まった夫との関係性を、著者が占い師に相談したシーンだ。

占い師は以下のように助言する。

「男の人は、女の人に対して、どんなことを一番望んでいると思いますか?」
さっぱり分からなくて、無言になってしまった。
「『役に立ちたい』と思ってるんです」
思わず「はあ?」と言ってしまった。

私も「はあ?」と思ってしまった。
男性に対してではない。「人と関わり、役に立ちたい」というエネルギーの持ち方に、「はあ?」と思ったのだ。
それと同時に、とても心当たりがあった。心当たりがあって、そして、「誰かに、私の人生で役になんて立ってほしくない」と、自分でも驚くほどの強い拒絶感に包まれたのだ。

誰かが私の人生の中で「役に立つ」こと。私が誰かに甘え、頼ること。
それらは私の「たった一人でもやっていく」という決意からなるセーフティネットを手放し、崖の暗闇に身投げをするような、不確定で、不愉快で、信じられないものだった。

しかし、ここまでの強い拒絶感に疑念も生じる。
どうしてこんなに嫌なのだろう。どうしてこれを拒絶してきたのだろう。

「人と関わり、役に立ちたい」が私の想定よりもメジャーな欲望だとしたら、誰かが私の人生の「役に立」たないよう排除してきたのだとしたら、それで生んできた事故もたくさんあるのではないか。(いや、むしろ、それにこそ「心当たり」がある。)

今回の文章では、誰かが私の「役に立つ」ことについて=私が誰かに「甘える」「頼る」「助けてもらう」ことについて、
その中でも、最も自分が強い拒絶感を抱く「甘え」という単語を軸にして、意味の捉え直しと、それに伴ういくつかの些細な実践について、一度振り返ってみたい。

同じような課題感を持っている人がいれば、少しでも参考になればと思う。

1.「甘え」とは何か

●「甘え」の用法

私の記憶の中では、「甘え」という言葉はいつもネガティブな用法で使われる。

「いつまでも甘えるな」とか「甘えてばかりじゃいけない」など、「甘え」は必ず否定形で使用される。(それは教師であったり、人と語り合う際に提示される人間関係のハックであったり、自己啓発本であったりした)

そこでは「甘え」は「未熟」や「迷惑行為」の象徴である。対比されているのは「成熟」ないしは「自立」だ。

私はいわゆる「甘ったれな」振る舞いを恥じ、時に積極的に自分に禁止をすることで、「さっぱりした」「大人な」振る舞いができていると、自負すら持っている癖があった。

しかし、社会に出て周りを見渡してみると、「甘える」人物が、釘を刺されてきたとおりに、未熟で、除外されるべき、好感度の低い、危険人物扱いかと思いきや、予想が裏切られたことのほうが多い。

意外にも現実では、「甘え」上手な人は上下問わずに愛され、人が集まり、コミュニティの中心にいることすらある。

「甘え」がネガティブな行為であると長年信じてきたのに、どうやらそうではないらしい。

ということを、認めたくないながらに、しかし突き付けてくる現実に、多少の苛立ちや、やるせなさを抱いていたのが、「甘え」に対する私のスタンスであった。

●「甘え」の定義

ひとまず私の経験と心情をベースに語ってきたが、「甘え」の定義とは何なのか、一度改めて確認してみたい。

「デジタル大辞泉」によると、下記のとおりである。

1 かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。「子供が親に―・える」
2 相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、なれ親しんでわがままに振る舞う。甘ったれる。

全体として見ると、定義としても意外に、ネガティブなニュアンスは強くない。
せいぜい「遠慮なく」とか「わがままに振る舞う」の部分だろうか。(それにも「なれ親しんで」という状況の限定が添えられている)

「かわいがってもらおうとしてまとわりつく」なんて愛らしいし、「相手の好意に遠慮なくよりかかる」というのも何やら伸び伸びとしていて愛おしい。

そう、「甘える」というのは元来、「可愛くて」「愛おしい」のである。

可愛くて、愛おしくて、手を差し伸べたくなる。
頼られてあげたくなってしまう。
犬猫や、それこそたまにいる「甘え上手」な人間に、寄りかかられて「しょうがないなあ」なんて世話焼きしてしまうその瞬間は、たしかに自分にも経験があった。

その経験を持っていてなお、それでも誰かに「甘える」ことが腑に落ちないのは、嫌悪感があるのは、果たして何故なのだろう。

2.「甘える」自分が気持ち悪い―セルフイメージとの関係―

まず大きな壁がある。「甘える自分」を想像してみると、どう考えても気持ち悪くないだろうか。
(「甘える」が苦手な人の最大の壁はこれなんじゃないか、と個人的には思っている。)

不気味で、気持ちが悪くて、ぞっとする。
相手がどん引きしそう。
小さい子供ならば、犬や猫ならば、容姿の美しい人間ならば、良いと思うけど…。

などと考えてしまいがちだが、「甘え上手で、愛される」人間は中年の男性でも目撃したことがある。
(「可愛い」の対極が中年の男性であるかのような書き方になってしまったが、もちろん「中年男性」と「可愛い」は、もともと両立する。と念のため補足しておく。)

そこにある不安や拒絶感は、実際に世間でどうかというよりも、「自分なんて」や「こんな自分が~していいわけがない」のような、セルフイメージからくる拒絶感だ。

セルフイメージの改修から取り組むとなると道は長い。
この点は私自身は、力技の頑張りで、(うっ自分気持ち悪いな…)とか思いながら無理やりこなしている。

とだけ書いても何も伝わらないと思うので、意識的・無意識的にかかわらず、個人的にセルフイメージの改修に役立った行動を記しておく。

●身体イメージに肯定感を紐づけする
私の場合はジムに通い始め、「醜い自分」を連想するパーツの改善に取り組んでみた。
(いままで身体をおざなりにしていた人が、初手で「ありのままの自分の体」を肯定的に受け入れるのは難しいと思う。というより、できるならとっくにやっているだろう。)

ここでは具体的な行動を伴わせ、自分の体をまず「知る」ことからはじめる。積み重ねる月日の中で、自分の体も愛着がわき、ケアの対象であるという認知に切り替わっていく。(…と思う)

同様に、こちらも自意識対策としてたまにやっていた、「自撮り」も良い効果をもたらしたと感じる。自分の身体を意識的にコントロールして、「昨日より、一か月前より、一年前より、"ちょっといい"かも」を得ることで、ある種身体がモノづくりの一環となり、自意識が身体から切り離されていく。

じっさいに身体や容姿がどの程度改善されるかは置いておいて、
「自分の容姿や身体はとても醜く、自分はそれにふさわしい振る舞いをしなければならない」=ネガティブな身体イメージに引っ張られ、ネガティブな振る舞いを選択せざるを得ない状況から、距離を置くことができれば成功だろう。

●セルフケアを意識的に行う
ジム通いや自撮りなど、上昇志向ばかりの行動でも精神的にも持たなくなるため、ケアに取り組むことも良い効果があった。

スパやサウナ、マッサージに行ってみること。
好きな食べ物を食べる、好きな音楽を聴く、好きな本を読む、好きなだけ眠ること。
「つらい」「疲れた」「もう嫌だ」のような状態を認めて、癒しにつとめること。

など、自分にとって良さそうなことを、なるべく躊躇わず行動にうつすようにする。「こんな私が…(していいのだろうか)」に絡めとられないように、普段ならばハードルが高い、と思うことも、時に思い切って実践してみる。

「形から入る」にも似ている。先に「上質な趣味っぽいもの」「丁寧な暮らしっぽいこと」などがあって、やってみているうちに、「こんなことをしている自分も、"悪くない"かもしれない」と、セルフイメージが後から追っかけてくるのだ。

また、自分の心身を粗雑に扱いがちな人は、いちど心身を自意識から切り離し、「友人」や「他人」、「推し」などと捉え直してみると良いかもしれない。

休みの日、ぐったりしている「推し」のために浴槽にお湯をためてみる。「もう働きたくない!」とこぼす「友人」に、好きなものを食べさせる。

もし、この心身が自分じゃなければ。友人なら、他人なら、推しなら。こんなにも粗雑に扱うだろうか。

●理屈立てをする
「甘え」に対する拒絶の中で、私の場合は一点明確な理由がある。それは私の中の根深い「ミソジニー」だ。

快活なフェミニストである母親のもと、暗に、ときには直接的に、「男に頼るな、甘えるな。愛嬌しかない女になるな、賢く、強く、自立せよ。」といった強いメッセージを受け続けてきた自分には、「甘える"女"」に対して、そもそも人一倍の嫌悪感がある。

 自分の中のミソジニーを矯正するというお題目のもと、「自分だったらこんな女は嫌いだ」をねじ伏せて、あえて実践するなど、ただただ気合でごり押した。
(もちろん実際に試してみて、壊滅的に合わなければ・失敗すれば採用しないという形で…)

 これを読んでいるのが男性の場合であっても、「男性への性差別を撤廃する」などのお題目を自分に与え、セルフケアや、「甘え」てみることへのチャレンジを行ってみると、大義名分があるため多少は精神的に楽になるんじゃないだろうか。

3.「甘える」を分解しよう―実践に向けて―

さて、セルフイメージも改修して準備は万端だ、さあ甘えるぞ!…と、簡単にはいかない。

長らく自身に「甘える」を禁じてきた結果、そもそも、「甘える」って何をどうすればいいのか、わからないからだ。

「甘えている」ってどんな状態なのか。「甘えたい」と思った時があったとしたら、どんな瞬間だったのか。
私は自身に何を禁じてきたのか。過去、通り過ぎてきた「甘え」の芽を振り返りながら、いま現在へと紐づけたい。

●解禁生活

まず本当に「甘える」がどこから手を付けて良いかわからなかったため、「今までの自分ならば絶対にやらなかったこと」から、できる範囲で少しずつ進めてみた。

①仕事
・仕事の内容について、真面目に話してみる
→会社の今後や業績について、同僚が何を考えながら働いているのか、業界の行く末など、特に「なるほど」と思える人と優先して話す。

・話をしていて心地が良いと感じる人との接触回数を増やす
→あいさつをちゃんとする、そのうえで一声かけたりもする(忙しそうだったら「最近大丈夫ですか?」と聞いたりする)。ランチに誘ったり、飲み会では話してみたいと思う人の席に移動してみる。

・仕事の内容を相談する
→「なんだかなあ…」とうまく言語化できないモヤモヤを、話していて心地が良い人に相談してみる。うまく整頓してもらえたら、あらためて社内で上司に相談したり、同僚に伝えてみたりする。

…ちょうど会社全体の業績が芳しくなく、社員全員に危機感があったため、取り組みやすい状態にあった。
これは「話したいと思えない人たち」などと無理にやることではないが、「会社の人と気軽に話せる関係をつくる」ことはただの「社内政治」(=打ち合わせや会議などで発言しやすくなる・聞いてもらいやすくなる。問題にぶち当たったときに個人のせいにされにくくなる。)としても有用なため、
「動きやすい環境づくり」の一環として形式的にトライできそうならば、やってみて損はないと思う。

②友人・恋人(またはそれに準ずる関係性)
・積極的に発信、声掛けする。
→暇だ、集まろう、最近元気?などと自分から声掛けをする。(待ち状態をやめる)

・SOSを発信する
→会いたい、寂しい、話を聞いてほしい、と伝えてみる。(対応してもらったら「付き合ってくれてありがとう」と必ずお礼を伝える)

・好意を伝える
→恋人に限らず、友人関係でも、好きなところを考えて言葉にして伝える。もっと一緒にいたい、二人で/皆でこんなことがしたい、楽しい、ということを開けっ広げに表現する。

…これは今でも出来ていることと出来ていないことがまばらだし、サボりがちである。さらに非常に気恥ずかしいのだが、パフォーマティブな(演劇性のある)行動が、自分のかたちを、相手との関係性をかたちづくっていくことがままある。

「何やってるんだろう、自分」とか思いながら、しかし自分の中の暗闇に足をとられ飲み込まれないように(足をとられ飲み込まれて失敗してきた関係性の屍を超えて)、実践を重ねている。

●見えてきたもの

以上のように実践を重ねてきて、ようやく「私が今まで私に何を禁じていたか」が逆説的に見えるようになった。

おおむね、下記の項目に整理できる。

①できないことをできないと認めること

自分には悩みがあり、一人では解決できない問題を抱えている。と誰かに「バレる」ことが、たまらなく恥ずかしく、みじめで、恐ろしかった。
こんな「弱点」を決してさらすものか、という気負いがあったし、実質一部の関係性では、そんなことを晒せば恰好の人格批判の「獲物」であった。

思えば、そもそも、人に頼らなければならないことが発生しないように、自分のキャパシティを超えないように、かなり厳重にコントロールをかけていた。
少しずつ元気になってきて、チャレンジを積み重ねるうちに、とうとう「一人では抱えきれない荷物」を抱えることになってしまい、「頼らざるを得なくなった」とも言い換えられるかもしれない。

幸い、今度は打ち明け、吐露する人々を「間違えなかった」ので、格好の獲物にはならなかった。

②寂しい、不安であると認めること

「自分はそんなことを感じたりしない」と自身に洗脳をかけることで、目の前の辛さを無効化する(ストレスの根源を「取り除く」「改善する」ではなく)、ことで生き延びてきたという癖がある。

しかし、自身への洗脳には完全に限界があり、切れ目切れ目で抑えきれなかった感情の渦に飲み込まれる。

自覚することすら遠ざけ、放置し、あるいは人と関わることへの不安やストレスが先立ち、「誰にも会いたくない」の隙間に「どうしようもなく寂しい」が現れ、高低差に振り回されるような日々を過ごしていた。

③好意を伝え、関係性の継続を願うこと

一緒に過ごせて楽しい、もっと一緒にいたい。好きだ、好きになってほしい。大切に思っている。心配している。今日も明日も来年も、良き関係を継続したい。継続していればいいと願っている。

といったことを、友人関係でも恋愛関係でも、伝える努力を一切していなかった。

気恥ずかしかったし、「そんなこと言わなくてもわかるだろう」と思っていたし、そんなことを伝えて「気持ち悪い」と思われたくなかったし、そんなことを伝えたからこそ関係性が変化して、失うことになってしまったら、どうしよう。と恐れてもいた。

または、失ってしまったとして、そこにかけていた思いが大きければ大きいほどショックを受けるならば、人に対してエネルギーをかけなければいい。寂しいとか話したいなんて、思わなければいい。と、とにかく「一人で生きていけばいい」に望みをたくす癖があった。

今は、結局誰かを好きになるし、話したいと思うし、寂しくなるし、不安になるのだから、と「観念して」、人に心を少しずつ明け渡すようにしている。

●伝え方

なお、具体的にどのようなメッセージに落とし込むかは、
『DV加害者プログラム・マニュアル』(NPO法人リスペクトフル・リレーションシップ・プログラム研究会(編著))の「ユーメッセージ」「アイメッセージ」(p.194)が参考になった。

「ユーメッセージ」とは、you=「相手」に押し付けるメッセージ、
「アイメッセージ」とは、I=「私」の気持ちや希望を伝えるメッセージであり、「アイメッセージ」を伝えるのが望ましいという内容である。

以下は変換の一例である。

ユーメッセージ        アイメッセージ
「わかってくれない」→「私は、さびしくて、悲しかった。」
「責められる」→「私は本当は、自分ががんばったことをわかってほしい。」

自分の寂しさや不安、憤り、恥ずかしさの自覚をためらわないこと。
ためらわずに自覚できたら、それが「どんな思い」なのか具体化すること。
具体化できたのならば、相手への伝え方を考え、明け渡すこと。時には勇気をもって交渉すること。

上記の一連の流れが達成できたならば、立派な「甘え上手」になれるのではないだろうか。

なお、直近不安や不満をアイメッセージに変換して伝えるところまでは頑張ったけれど、それまでの関係値の積み重ねやタイミング、相手のキャパシティを考慮できておらず、普通に怒られて失敗した関係性があるので、バランスの塩梅は気を付けてください。

(ただ、失敗したとはいえ絶縁ではなく、誰かの心を壊したということでもない。ある意味「大丈夫」の範疇であり、このような失敗をもっと早く、10代のうちから、繰り返しても良かったのでしょう。そんなことできる余裕なんてなかったけれど。)

4.まとめ

ここまで一連を振り返ってきた。

書き起こしてみると、そもそも「甘える」までにたくさんのハードルがあったり、自分の実践も直線的なものではなく、行ったり来たりでうじうじと曲がりくねりながらやってきたため、随分と長くなってしまったが、ようやくまとめとする。

「甘える」とは、未熟で、ネガティブな行為ではない。また、ただ横暴に振る舞うのではない。怒鳴り散らしたり、人を傷つけるのではない。

「これができない」「あれがしたい」「こうしてほしい」を自覚し、人に伝えられること。人に伝えて、関係性を編んでいくことから成る、成熟された交渉術だ。

それが意味することは、支配する/される、傷つける/傷つけられる、勝つ/負ける、二者択一でも一方通行でもない呼応の関係性へ、自身を結びつけることともいえる。

自分の欲望を見つめ、世界と交渉しよう。

もっと愚かになって、もっとみっともなく生きよう。差し伸べられた手をためらいなく取るために。

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