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車椅子になった僕がワールドカップのピッチにたどり着くまで

Twitterを始めてたしか1週間ほど。フォロワーもまだ29人しかいなかった。
そんな僕のツイートが5万いいねを超えたことに、驚きと共にTwitterが怖くなってしまった。
僕は今もカタールにいるが、この祭典のなかで最大級の喜びを感じる素敵な経験ができている。僕が唐突にも一人カタールへと向かうことを決心したのは、溢れるほどのサッカー愛とサッカーを通したこれまでの歩みが大きい。

僕のこれまでの歩みについてなかなかこれまで言語化することがなかったがせっかくの機会にまとめてみることにした。
急いで書いたのでおそらく読みづらいところもあり恐縮だが、タイトルの通りたくさんの支えが繋いでくれた僕に起きた話である。

サッカー好きな僕が車椅子生活になった

僕は4歳の頃から11年間サッカーを続けてきた。
週に5、6日練習と試合に励んだ小学生の頃、
チームの試合中の選手交代を考える選手監督を担った中学生の頃、
サッカーを通してたくさんの友達を作ることができて、
サッカーをしている時間は何よりも楽しくて夢中になれた時間だった。
趣味を超える生きがいであり、きっとずっと少なからずボールを蹴っていく人生になると思っていた。

しかし高校入学後の夏、自転車事故で車椅子生活になった。
脊髄損傷でサッカーができなくなったことは難しく感じる時間になった。
自慢だった脚が言うことを聞かなくなって無力な気持ちになって、前を向けない時間も続いた。サッカーどころか歩けなくなっていることがやりきれない思いになった。正直に辛かった。
僕の入院生活は高校在学時だけで1年を優に超えるものだった。

退屈な時間も多い入院中の生活。
そんな中で光が射すようにもたらしてくれた楽しいひとときが、ベットのテレビで見るサッカー中継だった。
いままでは当たり前のように何気なく見ていたサッカーが、これまでよりも熱く見えるようになった。サッカーを見ることがたまらなく好きになった。

そして、サッカーを直接見たくなって、Jリーグの試合や練習に行くようになった。サッカーを見ている時間、試合を見た帰り道は興奮した気持ちで包まれて、車椅子生活になったと感じる悲観的な思いも忘れることができていた。

思えば、車椅子になった後サッカーができなくなったからこそ深く落ち込んだけれども、サッカーのおかげで僕は少しずつ前を向けるようになっていった。

大学入学〜中央大学サッカー部へ所属〜

長期のリハビリ、留年からの復学など、苦しくも乗り越え、周囲の方々の支えもあり僕は中央大学に入学した。
しかし、胸を高鳴らせて入学した大学生活もスタートともにコロナ禍となり、もやもやとした気持ちが溜まっていた。

それでも、一つのメールで自分はまたサッカーを強く意識するようになった。
他の学部のJリーグのビジネスを学ぶ授業の聴講をお願いしていたところ、その授業を担当する渡辺岳夫教授から、改革を始めたサッカー部を勧めるメールが返ってきた。中大サッカー部はその時、広報やイベント企画、スポンサー営業など、プレー面以外の部分をコーディネートする事業本部という組織を立ち上げたばかりだった。そのことを伝えられていた渡辺先生はサッカー部に自分を紹介してくれた。

中大サッカー部は毎年Jリーガーを4,5名輩出し、2019年にインカレで全国ベスト4になった名門である。そんな実力のあるサッカー部ではあるが、技術力の向上やプロを目指すことだけを主眼としていたこれまでの大学サッカーの枠を超えて、今後は世界へ羽ばたくこと目標にサッカーを通して人々に影響を与えられるチームを目指そうと歩み始めた頃だった。

入部するまでに当たり、渡辺先生は「君のキャリアのために私が必要であればいくらでも力を尽くす。」と、
サッカー部のスタッフの方は「持田君の目標は僕たちにとっての目標にもなる。一緒に目指そう」と。
希望を示してくれた方々と出会えたから、自分はまたサッカーを通して熱くなりたいと感じた。

今、僕はサッカー部において、地域・社会貢献活動のプロデュースやパートナー活動(スポンサー営業)を行なっている。
僕自身としては、今年サッカー部にとって初めてとなるユニフォームスポンサーをもたらし、サッカー部は今年関東大学サッカーリーグ2部を優勝するなど、僕にとってもチームにとっても最高な1年となった。
車椅子生活になってもうサッカーとの縁はもう終わったと考えていたが、またサッカーで戦っている、それも日本屈指の大学サッカー部の一員として目標を掴んでいくことができていると思うと胸がものすごく熱くなる。

車椅子の自分に勇気を与えてくれたサッカー。
車椅子でもチームの一員として戦えることを教えてくれたサッカー。
どれもまわりのみんなのおかげがあってのことだが、これらのことを教えてくれたのもスポーツのチカラ。
サッカーの魅力を広めたい、中大が優勝するときに多くの人と感動を共有したい。その思いで僕はこの部と歩み続けていく。

ここまでのことはぜひこれらの記事も読んでいただきたい。


初めての海外、シンガポールとマレーシア

そしてこの記事が配信された8月の日のことだった。
古都鎌倉に徹頭徹尾国際化したサッカークラブを掲げる鎌倉インターナショナルのオーナーである四方健太郎さんが、中大サッカー部に鎌倉インテルの海外インターンシップの紹介をしにきてくれた。

四方さんは1998年のフランス大会からワールドカップを7大会連続で現地観戦されている少し有名な方でもある。企業の海外人材研修を本業とする傍ら、サッカークラブを創り経営している。

僕はこれまで海外に行ったことがなかった。様々な点で不安は大きかったが、四方さんの存在や「ボーダーを超える」というコンセプトの魅力に惹かれて、この企画を通して初めて海外に行った。シンガポールとマレーシアである。

また後日紹介したいと思うが、これは当時の自分にとって最も密度の濃い一週間となった。4時間半後に中国語で自己紹介をできるようになって戻ってくるように、40人以上の人々にインタビューをしてくるように、、など他に比較できないハードルの高いミッションをこなすごとに成長を感じていた。

初めての海外。語学や車椅子で行動することへの不安もあったが、実際に来てみると、あらゆることは気持ち次第で越えることができるって気づかされた。海外というアウェーに感じる環境をホームに変えることができたという喜びが、さらに海外で挑戦したいという思いに向かわせてくれた。

この研修の最終日。
最後にこの半年で成し遂げたい大きな目標を宣言していこうという話になった。

そして僕がこの場で宣言した目標がこれである。

いい目標だねと言ってくれたが、このときはまだみんなほんとに行くの?と思っていたように気もする。笑
研修期間中に日本が初めてワールドカップの出場を決めたマレーシアのジョホールバルの歓喜のスタジアムを訪れた。
「日本のワールドカップの歴史が始まった場所を訪れた次は日本のワールドカップの歴史が動く瞬間を見に行きたい。」
「サッカー少年の頃憧れたワールドカップを見に行きたい。」
「もっと海外で挑戦してみたい。」
東南アジアで過ごした時間が勇気をくれて宣言したものである。

いざ、カタールへ

カタールに行くとは誓ったが、チケットが確保できたのも遅くなり決心がついたのは11月に入ってからだった。慌ただしくも勢いで準備を進めて、飛行機のチケットが確保できたのは渡航の4日前。多くの友達にも先生にもワールドカップへ行くことを伝える間もないくらい忙しく向かった。
一人カタールへと飛び、長時間のフライトを経てなんとかドーハにたどり着いた。到着早々、宿泊する予定のはずの宿が止まれないと言われたらい回しにされる波乱も、現地で海外や日本の方との出会いもあって乗り越えた。

ドーハ到着の12時間後。初めて観戦するワールドカップ。
憧れのワールドカップスタジアムに胸が高鳴る気持ちで向かった。
日本代表の躍進の最初のインパクトとなったドイツ戦。
今回は省略するが、あの場で見た景色は一生忘れることはない。

そして、ワールドカップでの「生活」が始まるとさらに楽しさを実感するようになった。32カ国を超える世界中のサッカーファンがカタールという一国に集まり、みんなが世界最高の祭典を楽しんで、それぞれをリスペクトしていて仲良くなる。どこにいても世界中の笑顔が溢れていた。
また、僕が一人で階段しかない場所にたどり着いても、世界中のサポーターが駆け寄ってきて、異なる国々のみんなが「teamwork!」と声を掛け合って力を合わせて運んでくれる。
ワールドカップはもちろんサッカーの戦いではあるけれども、ワールドカップの地で広がる光景は、国も人種も信仰も超えて互いを称え助け合うそんな優しい世界だった。僕はそんな世界の虜になった。

ワールドカップがもたらすこの「平和」な空気が大好きだ。
スポーツがもたらすチカラがスポーツを超える景色に出会えた瞬間なんだ。

ワールドカップのピッチに立った!〜コスタリカ戦〜

日本代表の第2戦となったコスタリカ戦。
この日、僕は様々なことを思い浮かべながらスタジアムへと向かった。

サッカー少年の頃は車椅子になるなんて思ったことなかったな。
車椅子になってから大変なこともたくさんあった。
でも、車椅子になってからたくさんかけがえのない出会いがあった。
おかげでまたサッカーで挑戦できてチームにも入ることができた。
サッカーができなくなったのにサッカーがもっと好きになった。
みんなとの出会いがサッカー少年の頃の夢を思い起こさせて、ワールドカップへと向かわせてくれた。
今僕は、その舞台を見に行ってる。ほんとうに幸せだ。

色んなことがあったけど色んな出会いに支えられて今ここにいる。
この日はそんな感謝を回想してスタジアムに向かった。

試合開始1時間前。
スタジアムに着いて、普段の観戦と同じように座席で待っていたときだった。突然のことだった。


FIFAのウエアを着た立派な方が寄ってきて声をかけてきた。
その方と少し談笑した後、彼が笑顔で言った。

「あなたをセレモニーに招待します。どうですか?」


僕の口から思わず出たのはYes!でもNo…でもない、Really!?だった。

後から知ったことではあるが、国連の国際障害者デーの期間と重なった今大会のワールドカップでは試合開始前のセレモニーに車椅子の方を招待するというFIFA取り組みが行われている。その対象に自分が選ばれたことになるが、まさかそんな取り組みが行われていることを日本を出る前もスタジアムに来てからも知るはずもなく、本当なのか、、!と衝撃だった。
全くもって想像もつかない話だ。


首に関係者パスを下げ、厳重なゲートを通り、案内される廊下を進む。
恐る恐る進んだその廊下の出口の先で待っていたのは、
一面に広がる緑のピッチだった。

灼熱の熱気に包まれるスタジアム、
日差しをも凌駕するかのような選手たちの眩しい眼差し。
ワールドカップを間近で見て、
幼き頃夢に見た世界は夢よりも輝く場所に感じた。


この試合があった11月27日。
実は、僕の車椅子生活が続くのが始まったのは5年前の11月27日。
車椅子になったちょうど5年後の日、
僕はワールドカップのピッチにたどり着いた。


一番忘れたかった日が、一番忘れたくない日になったのだ。


「人生何が起こるかわからない。」
不幸なことが起きたときに使う言葉だと思ってた。
でも、幸せな出来事が起きたときにも使える言葉なのかもしれないと教えてくれた。


僕が国歌斉唱に加わった理由〜スペイン戦〜

ドイツ戦の金星のあとコスタリカ戦での敗北。
勝つしかないという状況に、これまでの2試合とも一層違う覚悟と緊張が生まれていたこの試合。選手だけではない、僕も現地の日本人サポーターの方々の間でもその雰囲気は漂っていた。

日本代表にとって最も大事な一戦。
この試合で僕に更なるサプライズが待っていた。

コスタリカ戦同様、スペイン戦でもFIFAの方に声をかけられた。
でも、FIFAの方の話はコスタリカ戦の時よりもたくさんの確認があった。
コスタリカ戦の際は僕はピッチのタッチライン付近でセレモニーを見ていた。ただ、この試合のセレモニーでは、車椅子の方は選手や審判の前に並びエスコートキッズの子供たちと似たように参列する取り組みになると説明を受けた。
間近で見るだけではなく、表舞台に参加するのかと思うと緊張と興奮で震えた。

案内されて向かうバックヤード。一緒に参列することになった車椅子のスペインサポーターの方と震え立つ鳥肌を見せ合った。
セレモニーが始まる直前。ピッチのそばへ。
ナイターゲームということもあり、炎と光が熱く美しかった。

いよいよ始まったセレモニー。ワールドカップソングとともに、選手たちが入場を終え、自分も誘導されて審判の方の少し前の立ち位置へ。選手たちと同じ方向を向いた。

数えきれない無数のカメラと集中する観客の視線。
会場が作り出す迫力が壮大だった。
これがワールドカップの戦士たちが見る景色だと思うと胸騒ぎが凄かった。
もうそれだけで心臓が止まりそうだった。



でも、ここで予想のつかない最大の興奮が起きた。


いよいよ、日本の国歌斉唱が流れる直前のこと。
いきなり僕の車椅子が引かれた。

後ろから声をかけてきたのはキャプテンの吉田麻也選手だった。
「一緒に歌おう」と言って車椅子を引いてきたのだ。

そして僕は日本代表選手たちの列に加わり、肩を組んで君が代を歌った。
僭越だが、言わば「12番目の選手」かのように。


突然のことに動揺した。何が現実かよくわからなかった。
これまで感じたことのない感動。興奮。緊張。
きっと人生最大の心拍数の中で君が代を歌っていた。

後に改めて僕の表情を見てみると、涙を堪えようとするものや満面の笑みなど様々な表情があった。今思えば、これ以上ない感激や嬉しさなど、たくさんの感情が交錯してあの表情につながったと思う。あらゆる感情のそれぞれが、人生最高に溢れて止まらなかった。

こんな素敵なチームが負けるはずがない、
こんな素敵なチームだからこそ勝ってほしい。
なんか今日は勝てそうな気がする。

ドーハの歓喜。2度目のアップセット。
嬉しくて叫び続けた記憶がまだ残っている。

日本が強豪スペインに勝った。スポーツだから味わえるこの感情。何度思い返しても涙が出る。
そして、スポーツのチカラを分け与えてくださったFIFAの方々、
何より吉田麻也選手には何とか感謝の想いを伝えたい。
サッカーと向き合い続けた先で見ることができたこの奇跡的な景色は、
僕にとってかけがえのないスポーツのチカラを感じた瞬間になった。

過去から繋がった今回の出来事

ドーハで起きたことは僕にとって刺激に溢れた時間だった。
僕は今回強い気持ちでドーハに行きたいと思って来た。
それはサッカーが大好きなことに始まり、受傷後も努力したこと、大学でサッカー部に入ったこと、東南アジアに行ったこと、これらが繋がって行くまでに至ったと思う。

受傷後の折れそうな心を最後の一踏ん張りで堪え、車椅子になってもサッカーに向き合い続けてきたから、そこに至るまでの努力とかけがえのない出会いがあったから、ワールドカップのピッチが一層心にぐっとくるものになったと思う。

そんな僕の歩みにとって大事だったのは、入院中の僕を支えてくれた方々、前を向く気持ちを起こしてくれたサッカーと人達、サッカーでまた挑戦する機会を与えてくれた中大、初めての海外を後押ししてくれた人々、、。
すべてのみんなとの出会いで僕の進む道は定まり拓かれて歩んでいくことができた。全ての方々に溢れる感謝を伝えたい。

スポーツのチカラを感じた瞬間。その瞬間だけを見れば一瞬かもしれない。でも一瞬で儚く終わるものではない。前に進み続ける誓いを続けていけば、僕の過去にも未来にも世界中のどこにいっても、全て繋がっていって輝き続けるものになる。

#スポーツのチカラを感じた瞬間 #ワールドカップ
twitter id : @motchy_fly


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